このオシュからパミールへ編では,2016年7月3日オシュのホテルを出て街で両替やちょっとした買い物をし,高台の展望点に出て見物,さらに進み河原でランチ,タルディク峠(3,615m)を越え,サリタシュの村で西に折れ,サリモゴルの村の先で,南への野道に進み,夕刻アチクタシュBCに着いたときの写真を載せました.
この日私たちはオシュ(3)を出て,サリタシュの村(4)で西に折れ,サリモゴルの村(5)の先で,南への野道に進み,夕刻アチクタシュBC(6)に着いた.
さてこのマップを見ると判るが.3,000年の歴史があるというオシュの西側直ぐ隣はウズベキスタンで,ソ連崩壊で中央アジア各国が独立する際にキルギス族への政治的配慮からキルギスタン領になったそうだ.キルギスタンにはキルギス族以外にカザフ族,ウズベク族,ロシア族,タジク族....等々いろいろ住むが,ここオシュは特にウズベク族が多いそうだ.
こうした国境が引かれたことから,1990年と2010年,キルギス族とウズベク族の対立でオシュ(オシ)暴動が起こり,死者75,負傷者1,000人以上に上ったという.なおこうした問題はオシュだけでなく,後に訪れるウズゲンなど,やはりウズベク境界に近い町でもあるそうだ.
オシュのサンライズホテルを出て,街の通りを通過した.概して田舎街風の街並みで,道路は空いており,車道脇のプラタナス(多分)並木がいい味を醸し出している.
私たちはキルギス通貨ソム(Som)に両替するため,小さな銀行に立ち寄った.水はガイドTさん所属の旅行会社(Ak-Sai Travel)が毎日2本支給してくれるというし,食事のときのビール代くらいあればいい.で,US$50→3350ソムに替えてもらった.ビールは場所によってかなり差があるが,70ソル~350ソルで,数カ所US$でもいいところもあった.
なおこの国では銀行を写真に撮ってはまずいそうだが,このレート表程度はいいかと思う.PPとKTはどこの通貨か判らない.ロシア通貨ルーブル?と....?
ところで街には銀行の数がバカに多く目立つ.どうしてでしょう?一般に住宅購入のためにローンを組むのは皆無だそうで,個人事業主を含め,殆ど事業への(高金利)貸出が多いそうだ.
オシュの街には果物屋さん(八百屋さん)が所々にあった.キルギスは今が一番果物が豊富で,美味しいときだそうだ.
添乗ToさんとガイドTさんがスイカや,メロン,桃.....など,私たちの食事デザート用に買い入れてくれた.楽しみだ.
そのうち道路に架かるアーチを通過した.歩道には花壇が備えられ,モザイク壁画が掲げられている.オシュの街のゲートであろうか.
壁画のあるアーチから行くとオシュ郊外となる.広々した河原を従えた緩やかな流れの川には,ポプラや干し草の山に囲まれた農家が点在する.背後の山には多分家畜が疎らに放牧されているのだろう.
ところでこのオシュから始まる街道は昔からの街道M41なのだが,近年中国政府の借款,および人員投入で改修され,完成したそうで,新疆ウイグルのカシュガルに続いているそうだ.中国政府の推めている新シルクロードの一部なのであろう.ただ投入された資金は数年以内に返還しなければならないそうで,それはそれでキルギスタンには大きな負担であろう.
暫く行くと変わったデザインのモスクがあった.凹凸ある金属ドームは中央アジアのモスクでは一般的なデザインであろうが,そのドーム直下をすべて別屋根で覆ってしまったように見える.歴史ある古い寺院など文化財保護のために丸ごと覆う例は見たことがあるが.....ここはそう古くは見えないし,やはりこの設計で建てられたのであろう.おもしろい.
ガイドTさんによると,馬は大変頭のいい動物で,炎天下では数頭並列に並び,頭の位置を隣の馬の胴体横まで下げて陽射しを避けるそうだ.
ただどうして道路の真ん中でそれを行うのかまでは理解できないそうだ.人にその芸を見せるためかな~
川は自然のまま堤防がなく,湿地の河原が広がっている.キルギス全体では春先雪解けの時期に一番水嵩が増えるということだ.その頃はきっと川幅が広がっていることであろう.
山の斜面にユルトまたはユルタ(テュルク語系)で,パオ(中国語),ゲル(モンゴル語)が見える.定住化が進み,数が減ってきているそうだ.現在は定住する低地の村の普通の家屋で暮らし,夏の間だけ家畜を連れて高地で生活するときに使われるケースが多くなったようだ.
Chyiyrchyk pass(チルチク峠と読むのか?)を越える.山の国キルギスタンらしく峠越えは幾つもありそうだ.
チルチク峠近くの丘の上には,馬や,それを連れた人,乗ったが見える.一般に他国では家畜として羊や山羊,牛,ヤクなどが馬より多いように思うが,ここキルギスタンでは馬が大変目立つ.やはり遊牧の民を自認し,人の乗り物として,ユルトなど荷物の運搬に(ラクダも少しいるがやはり山の斜面は馬以外だめだそうだ),馬乳酒のミルク採取に,食用肉に....ととても重用されるのだそうだ.
高台で展望の利く丘に来て,ここで一休みした.丘には数戸のユルトが居を構えていた.僅かな雑貨を商っているご家族の写真を撮らせてもらった.日本人とよく似た顔立ちで,キルギス族であろうか.服装は大まかにはウズベキスタンの人たちなどと変わりないように見える.
高台には修理中の詩人のモニュメントがあった.キルギス国旗と同じデザイン(=ユルト屋根)の天辺では職人さんが作業している,
詩人像の前ではピクニックランチを広げている家族もいる.
展望点で通って来た道を振り返って見た.緩やかだがず~と山々に囲まれている.それらの山が茶色ではなく,緑に包まれているのが印象的だ.これなら家畜が喰む草は確保できそうだ.
高台の展望点から進むと丘の中腹,緑に包まれた美しい村が見えた.右下に畜舎のようなものが見えるのでやはり牧畜を生業としているのではなかろうか.
少し進むとまた墓地が見えた.キルギスではほぼイスラムなので,右向けの顔がメッカの方向となるよう個別に埋葬され,また頭の先に墓標が建てられるそうで,墓標は皆同じ方向を向いている.
ところで墓地が至る所で見える.とにかくキルギスタンで大変目立つのは上述の馬と墓地だと思った.
馬上の2人が羊の群れを誘導している.イスラム圏ではよく出合うシーンで,私は好きだ.馬が多いのは確かだが,やはり羊も相当数いるのであろう.何しろ一匹見えれば,塊で存在するのだから.
岩や土砂の成分のためであろうか,大幅に彩度を落とした七宝焼きのような色彩の山が美しい.ただこういった地面は草には好まれないのか,比較的疎らだ.
ちょうど手の洗える川があって,また腰を下ろす河原のある場所に着いた.さてここでピクニックランチだ.
お弁当はAk-Sai Travel名の入ったボックスに,ジュースやパン,チキン,キュウリにトマト,バナナにリンゴ,ドライフルーツ,チョコレート....など,こんなものが入っていた.
今回のツアーは必ずしもレストランのある町や村を通過しないので,こうしたお弁当や,民家で食事といったケースがままあった.
私たちの小型バスはどんどん高度を上げていった.通ってきた方向の空はクリアで,雲の影が山肌に投影され,そこだけ黒く写っている.いい眺めだ.
坂を登り切ったところでバスを降りた.Taldyk Pass 3,615mの標識があり,標高が高いので空気は冷たい.
近所(とは言っても距離はあるかも)から出掛けて来ているのだろう,コークやファンタの空き瓶に馬乳酒を満たし,販売しているそうだ.ちょうど夏休み期間中で,家のお手伝いをしているのであろう.がんばっているね.
タルディク峠の先を見渡すとこんな風に見える.やはり山また山,キルギスタンの原風景だね.
バスは進み,サリタシュ村の三叉路に来た.ここで左手(東側)に折れれば新疆ウイグルはカシュガル(喀什)に至り,右(西)に曲がればパミール高原を通り,タジキスタンの首都ドゥシャンベに続くそうだ.
なおオシュからここまでは,パミールハイウエイ或いはM41路と呼ばれる旧ソ連時代の軍用道路の一部だそうだ.パミールハイウエイはサリタシュからそのまま南下し現タジキスタンのホルグまで続くそうだ.ただ私はサリタシュから南下する交差点は見逃してしまった.なおM41の道路名はGoogleマップにも記されている.
私たちはパミールアライ山脈を目指しているのでパミール方面に折れる.街道から距離を置いて,そのパミールアライ山脈が見える.レーニン峰はこの方向からは見えないそうだが,名は分からないまでもなかなかどうして立派な山並みだ.
サリタシュには住宅や小さなお店,倉庫が並んでいる.住宅は普通の恒久タイプが多い.倉庫には古い鉄道貨車を転用したものも見える.全般に西部劇に見る,荒野の中の街並みのような雰囲気も感じさせる.
サリタシュの三叉路からパミール方面に進むと直ぐに郊外(?)となる.広々した草原には家畜が草を喰んでいる.これもいい光景だ.
道路脇で初々しい男の子,まだあどけない顔からして多分5歳位であろう,が馬に跨がり颯爽と私たちの前に現れた.見るに全く邪気無く,単に人通りも疎らな地故,私たち往来者が珍しく,観察すべく現れたようだ.この子の歳にしては実に巧みな手綱さばきだ,いや~将来楽しみだな~と思った
サリタシュからさらに西に進むとそろそろサリモゴルの集落に近づく.集落の前までは広い牧草地の平原(起伏があるが)が続く.家畜の群れが緑に浮かび実に長閑な光景が映える.
やがてサリモゴルの村に入った.かなりの戸数がありそうだ.ただトタン屋根の住居はちょっと味気なく映る(旅行者の勝手な言い分だが).並列して走るパミールアライ山脈の威容はそのまま続いているので首は左に捻ったままで,ちょっとヤバイ.
なお帰路にはここサリモゴルの村に立ち寄り,食事と伝統文化を味わわせてもらう予定になっている.楽しみだ.
街道に平行して流れる茶色の濁流にはサリモゴル村を過ぎた辺りで橋が架けられていた.私たちの小型バスはここを渡った.この先はこれまでとは違って4WDの出番となる.もち論私たちのベンツ小型バスは4WDの筈で,トヨタランクル並の信頼を置いている.
濁流に架かる鉄橋を渡るとそこからはダートの野の道だ.しかしネパールやパキスタンの山の道と違って平らな野であるから,よしんばひっくり返っても大した心配はない筈だ.ということで,存分にパミールアライ山脈の威容を楽しみながら進む.
暫く進むとキルギス帽(カルパック)を被り,馬に跨る男性が行く手に見えた.かっこいい~
男性は近くにユルトを張るグループの一員のようだ.
果たしてカウボーイ男性から少し先にはユルトが数戸見えた.ユルトの脇にはトラックやユルトではないテントのようなものも見える.少し離れて家畜も見える.
ここは冬には雪も多く積もり,夏専用の放牧地なのだそうだ.夏の現在眺める限り平穏豊かな地だが,冬は大変な様相を示すのであろう.
ネパールやインド北部で言えば『夏のカルカ』と同じような土地に相当しようか.
放牧村ユルト群からダートの道までは結構距離があり,車が出ようとした矢先になって子どもたちが集まってきてくれた.ありがとう.
もちろん私たちが土地の子どもたちに出会うのは楽しみであるし,なかなか人の通らない土地であるので子どもたちにとってもそれなりの期待があろう.ゆっくりできないでごめんね.
大分目的地アチクタシュBCに近づいた.そして野は野草が咲き乱れている.そこで添乗Toさんの号令でバスが停まり,野原を眺めてみることになった.
まあ~野原一面花だらけ,一体どうなっているんだ~という感じで咲き乱れている.
多分ほんの一部であろうがこのような花が目に入った.
お花畑の後も荒れ地は続いた.ドライバAdさん,Acさんは川渡りで深みを避けるべく探りながら進む.ベンツ小型バスは4WDだが,ここで4WDは最小必要条件であろう.
やがて私たちのバスはアチクタシュBCに到着した.同BCはAk-Sai Travel所有のBCで,レーニン峰BCの一つである.周囲,少し離れた場所には他社のテント群も見えている.ここでは固定式テントが数十張りマトリクス状に規則的に配置されている.テントは二重カマボコ型で天井が高く,大きい.Red Foxというロシアのアウトドアブランド名が入っているが,テント以外でも見かけるので旧ソ連圏では知られたブランドなのであろう.
ガイドTさんからテントの割り振りが知らされ,荷物を入れる.外側(フライ部分)床範囲をカバーする板張りの床が設けられ,前室もインナーも十分広い.しかもシェラフの下に簡易ベッドが据えられ,ブランケットが付属している.これなら寒くないであろう.
ただ二人用テントも一人用と同じもので,2つの簡易ベッドでは若干手狭かもしれない.
テント壁に小さな穴が開けられ,そこから普通の200VAC電源が引き込まれている.電気スタンドも備えるが,差込口が一つなので充電器を使うときは外した.二股プラグを持っていれば更に役立つはずだが,充電できるのは大変ありがたい.
写真左から1/3辺りにレーニン峰(Lenin Peak:7,134m)がある筈だが,雲に覆われこの日夕食時までは見ることができなかった.他は青空が広がっているがパミールアライ山系は高いので雲が掛かりやすいのであろう.
写真中央はお手洗いで,今夕から下り気味の私は度々お世話になった.添乗Toさんにお薬をもらって治ったが,その後さらに2度も具合悪くなった.普段便秘が大変で,その処方薬に関しては用意周到だったのだが.....さてその要因は加齢に因るものか?或いは高度3,600mの影響か?それらの複合作用か?....
電柱に電線が見える.以前はエンジンで自家発電していたが,いまは電力会社の配電で,終日テントにも,ダイニングやキッチンにも供給可能になったそうだ.
私たちはダイニングテントに集い,夕食を頂いた.トマトなど生野菜にビーフなどの煮込みだったか....?それにデザートは朝仕入れてくれたスイカだ.とても美味しそうだが,腹具合の悪いときは控えた方がいいとToさんにアドバイスされる(涙)
食後,体調不良でテントで休まれていたメンバーも居られたが,互いに居住市や今回ツアーの期待点など簡潔な自己紹介を行った.全国広くから集まっており,それぞれいろいろな期待があり,お互い様ながら興味深い.
アチクタシュBCにはいろいろな宿泊客がいた.アジア系は私たちだけで,ヨーロッパとロシアの人たちが多いそうだ.隣のテーブルを覗いたら私たちと全く同じ(ただしスイカなし)だ.写真ブルーカーテンの奥がキッチンとなっているのだが,限られたスタッフが賄うに限界なのであろう.
私たちはBC周辺のハイキングだが,ヨーロッパやロシアの人たちは殆ど登山で,多くはレーニン峰,中には左隣りのSary Jal峰(ガイドTさんに聞いた名称)に登るそうだ.高度順応のため事前にBC直ぐ右脇のペトロブスコ峰(4,700m)に登る場合も多そうだ.
夕食も終わり,大分暗くなってきた.ただ山脈には陽が残り,レーニン峰の雲も幾らか薄くなり頭を覗かせた.この分だと明日は眺望が期待できそうだ.