モスク,メドレセ,ミナレットなど(4)

このページでは既存ページから転載し,スレイマン山(キルギス),オシュのモスク(同),ウズゲンミナレット(同),ボコンバエバのモスク(同),ドゥンガンモスク(同),チョルポンアタのモスク(同),通海のモスク(中国雲南省),ギルネのモスク(北キプロストルコ共和国),セリミエジャミイ(同),ヒッテイーン丘のモスク(イスラエル),首都ラマッラーのモスク(パレスチナ自治区),岩のドーム(イスラエル),オリーブ山のモスク(同),プリシュティナ郊外のモスク(コソボ),プリズレンのスィナンパシャモスク(同),プリズレン郊外のモスク(同),スコピエのムスタファパシャモスク(マケドニア),ビトラのイェニモスク(同),ベラート城のミナレット(アルバニア),エザムベイモスク(同),クルヤのムラドベイモスク(同),カラジョズベゴヴァモスク(ボスニアヘルツェゴビナ),コスキメフメットパシナモスク(同),チャルシイスカモスク(同),ガジフスレヴベイモスク(同),フェルハディアモスク(同),ハミのエイティガールモスク(中国新疆ウイグル),ウルムチの回族南大寺(同)の写真を載せました.

スレイマン山(キルギス)

オシュ(Osh)のスレイマン山(Sulaiman Too)

オシュ(Osh)のスレイマン山(Sulaiman Too)

スレイマン山は預言者スレイマン(ラテン語ではソロモンSalomon:1,011BC~931BC頃)が逗留したとされる伝説に因むそうだ.1,011BC~931BCと言えば,ムハンマドよりはもち論,キリストより遥かに古い旧約聖書の時代に遡る訳で,キルギスタンにイスラムが入るよりず~っと昔になるわけだ.頂上には1,510年建立というモスク(この写真)があるのだが,コーラン(クルアン)にはスレイマンは預言者の一人として記されており,その人の墓がモスクに在あったという伝説があるという.

以上キルギス紀行2016/オシュのページから.

オシュのモスク(キルギス)

オシュ(Osh)のモスク

オシュ(Osh)のモスク

スレイマン山の麓辺りに,4本ミナレットの比較的大きなモスクがあった.スレイマン山と関わるのかどうかは判らない.

以上キルギス紀行2016/場所のページから.

ウズゲンミナレット(キルギス)

ウズゲン(Uzgen)のミナレット

ウズゲン(Uzgen)のミナレット

このミナレットはカラハン朝時代の11世紀に建造されたと見られているという(現在は遺跡).基部の直径は9.1m,高さは19.1mで,11世紀建立時は遥かに高かった(地震で崩れた)と推定されるそうだ.近くにモスクの跡を見ることはないが,アザーンを発する場であると共に,監視台の役割を兼ねていたそうだ.

以上キルギス紀行2016/ウズゲンのページから.

ボコンバエバのモスク(キルギス)

ボコンバエバ(Bokonbayevo)のモスク

ボコンバエバ(Bokonbayevo)のモスク

こぢんまりしたタイプだがミナレットも備えている.特にドーム屋根は中央アジア様式,凹凸ある金属だ.

以上キルギス紀行2016/ボコンバエバのページから.

ドゥンガンモスク(キルギス)

カラコル(Karakol)のドゥンガンモスク(Dungan Mosque)

カラコル(Karakol)のドゥンガンモスク(Dungan Mosque)

ドゥンガンとは中国系イスラム教徒のことで,清代1862年,現陝西省回族イスラム教徒の反乱が鎮圧され,そのときここカラコルはじめ中央アジア各地に逃れたそうだ.そしてそれら回族子孫がドゥンガンというわけだ.ドゥンガンモスクは中東のモスクとは著しくデザインがが異なり,やはり一言で表現すれば『中華風』である.

以上キルギス紀行2016/カラコルのページから.

チョルポンアタのモスク(キルギス)

チョルポンアタ(Cholpon Ata)のモスク

チョルポンアタ(Cholpon Ata)のモスク

主ドームと2本ミナレット頂き部は金色だ.そしてそれが平らでなく,ブツブツしているところがキルギス風だ.まだ完成して日が浅いようだ.

以上キルギス紀行2016/チョルポンアタのページから.

通海のモスク(中国雲南省)

通海(Tonghai)のモスク

通海(Tonghai)のモスク

建水の見物を終え,またバスに乗り北を目指した.暫くして通海辺りを通過すると金色ドームに2本ミナレットのモスクが見えた.通海にはイスラムの回族が多く住んでいるという.Mさんもガイドであるイスラムの友人が一人いるそうだ.

以上春の雲南紀行2016/建水のページから.

ギルネのモスク(北キプロストルコ共和国)

ギルネ(Girne)のモスク

ギルネ(Girne)のモスク

ギルネの大通りに面し,白い2本ミナレットと白いドームのモスクがあった.途中で見かけたモスクと色は違うが,同じような形式で似たようなサイズか.

以上キプロス紀行2016/ギルネ(またはキレニア)のページから.

セリミエジャミイ(北キプロストルコ共和国)

北ニコシア(north Nicosia)のセリミエジャミイ(Selimiye Camii)

北ニコシア(north Nicosia)のセリミエジャミイ(Selimiye Camii)

正面から眺めると,少なくともファサードは典型的なゴシック様式と思われる.元々は聖ソフィア大聖堂(下写真:Saint Sophia Cathedral)と呼ばれたこの建物は,フランス統治時代の13世紀初頭に着工され,資金繰りや政治問題がありながらも,一応東部分は1228年頃竣工し,そしてほぼ大半が1346年に落成したようだ.ところが1570年,オスマン帝国が政権を取ると,この大聖堂はモスクに転換され,2本のミナレットが追加され,また教会内の彫像やフレスコ画,ステンドグラスすべて撤去されたそうである.

以上キプロス紀行2016/北ニコシアのページから.

ヒッテイーン丘のモスク(イスラエル)

ヒッテイーン丘(Hittin hill)のモスク

ヒッテイーン丘(Hittin hill)のモスク

2本の立派なミナレットと金のドームを備えたモスクが見える.モズレム(イスラム教徒)住民の多い街(いや村程度か)だそうで,ナザレに至るまでに複数あった.ナザレを含めてこの辺りはアラブ系国民が多いそうだ.但しこの近辺だけはイスマーイール派を起源とするドゥルーズ派というイスラム教徒が多いそうだ(イスラエル全体での割合は僅かだそうだ).ユダヤ人と盟約を結んでいるのが他のアラブ人と異なる点だそうだ.

以上イスラエル紀行2015/ナザレのページから.

首都ラマッラーのモスク(パレスチナ自治区)

パレスチナ首都ラマッラー(Ramallah)のモスク

パレスチナ首都ラマッラー(Ramallah)のモスク

エルサレムに向かう街道からパレスチナ側が見える.金色ドームに2本の高いミナレットのモスクが目を引く.この辺りがパレスチナ自治区の実質的な首都ラマッラー(Ramallah)だそうである.パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区ではちょうど中程に位置し,エルサレムの北10kmになるようだ.

以上イスラエル紀行2015/エルサレムへのページから.

岩のドーム(イスラエル)

エルサレム(Jerusalem)神殿の丘の岩のドーム

エルサレム(Jerusalem)神殿の丘の岩のドーム

ドーム内部には聖なる岩(Foundation Stone)が祀られているそうで,いわばドームは神殿あるいは記念堂であるが,祈るためのモスクではないということだ.ただその聖なる岩はイスラムのみならず,ユダヤ教とキリスト教にとっても重要な意味合いをもっているのだそうで,いかにも争いの種的響きに感じられる.最も古くは,ユダヤ教における『聖なる岩』で,4000年前アブラハムが息子のイサクを神の生け贄にしようとした時,イサクを載せた台岩であったとされるそうだ.

以上イスラエル紀行2015/岩のドームのページから.

オリーブ山のモスク(イスラエル)

オリーブ山(Mount of Olives)のモスク

オリーブ山(Mount of Olives)のモスク

オリーブ山が近くなり,このような石造りモスクの前を通った.ただパレスチナ側に見かけてきた,金色ドームや高い2本ミナレットなどと比べると華美ではなく,実用的な感じだ.

以上イスラエル紀行2015/オリーブ山のページから.

プリシュティナ郊外のモスク(コソボ)

プリシュティナ(Pristina)郊外のモスク

プリシュティナ(Pristina)郊外のモスク

プリシュティナ郊外の村にはそれぞれ小さなモスクが建てられている.これはその中の一つだ.まだ未完成のようでミナレットには足場が架かっている.

以上南バルカン紀行2013/プリシュティナのページから.

プリズレンのスィナンパシャモスク(コソボ)

プリズレン(Prizren)のスィナンパシャモスク(Sinan Pasha Mosque)

プリズレン(Prizren)のスィナンパシャモスク(Sinan Pasha Mosque)

プリズレンにはモスクがとても多い.その中の一つはスィナンパシャモスクでかなり大きく,街の中心部広場近くに立っている.好天であるが朝靄が濃い.オスマントルコ時代に建てられたそうだ.現在傷んだところがトルコ政府の資金援助で修復工事が進められている.

以上南バルカン紀行2013/プリズレンのページから.

プリズレン郊外のモスク(コソボ)

プリズレン(Prizren)郊外のモスク

プリズレン(Prizren)郊外のモスク

プリズレンからマケドニア国境までの街や村にはそれぞれ小さなモスクが建てられている.

以上南バルカン紀行2013/プリズレンのページから.

スコピエのムスタファパシャモスク(マケドニア)

スコピエ(Skopje)のムスタファパシャモスク(Mustafa Pasha Mosque)

スコピエ(Skopje)のムスタファパシャモスク(Mustafa Pasha Mosque)

オスマン帝国支配が始まって程ない1492年,セリム一世の家臣ムスタファパシャにより建立され,その名に因むようだ.マケドニアで最も美しいイスラム建築の一つとされるそうだ.

以上南バルカン紀行2013/スコピエのページから.

ビトラのイェニモスク(マケドニア)

ビトラ(Bitola)のイェニモスク(Yeni mosque)

ビトラ(Bitola)のイェニモスク(Yeni mosque)

ドラゴル川(river Dragor)少し手前の道脇にあった.縦横50mくらいの建坪で,1558年Kadi Mahmud-efendiと云う人によって建てられたそうだ.イェニ(Yeni)とはトルコ語で『新しい』と云う意味だそうで,従ってイェニモスクの名のモスクはマケドニアのみならずあちこちにあるそうだ.

以上南バルカン紀行2013/ビトラのページから.

ベラート城のミナレット(アルバニア)

ベラート城(Berat castle)のミナレット

ベラート城(Berat castle)のミナレット

ベラート城址にレンガ造りの塔があった.今は無くなったがオスマン朝時代,ここには赤いレンガ造りの,赤いモスクがあったそうだ.そのためこの塔は赤いミナレットと称されるそうだ.

以上南バルカン紀行2013/ベラートのページから.

エザムベイモスク(アルバニア)

ティラナ(Tirana)のエザムベイモスク(Et`hem Bey Mosque)

ティラナ(Tirana)のエザムベイモスク(Et`hem Bey Mosque)

1本ミナレットのエザムベイモスク(Et`hem Bey Mosque)は1789年建立というから200年余り前に遡る訳だ.外壁にもアラベスク模様の壁画が描かれている.アルバニア語ではジャーミヤエトヘムベウトというのが正しいようだ.エンベルホッジャ体制の無神論宣言下で他所のモスクや教会が悉く破壊された中で,ここはこうした壁画の美しさから何とか難を免れたようである.

以上南バルカン紀行2013/ティラナのページから.

クルヤのムラドベイモスク(アルバニア)

クルヤのムラドベイモスク(Kruja Murad Bey Camii)

クルヤのムラドベイモスク(Kruja Murad Bey Camii)

クルヤ城址入り口手前に高いミナレットが見えた.モスクに至る小径にはTiKA援助の修復事業説明書が掲げられている.これによればKruja Murad Bey Camiiと記されている.Murad Beyを引いてみると,オスマントルコ帝国領エジプトの領主(1750~1801年)で,勇猛果敢な武力で知られた人だったそうだ.緒戦勝ち抜いたが,晩年エジプトに上陸してきたナポレオン軍に破れたという.

以上南バルカン紀行2013/クルヤのページから.

カラジョズベゴヴァモスク(ボスニアヘルツェゴビナ)

モスタル(Mostar)のカラジョズベゴヴァモスク(Karadoz Begova Dzamija(mosque))

モスタル(Mostar)のカラジョズベゴヴァモスク(Karadoz Begova Dzamija(mosque))

ヴィシェグラードのソコルルメフメトパシャ橋や,エディルネ(トルコ)のセリミエモスクなどの設計で名高いミマールスィナン(Koca Mimar Sinan)の設計により,1557年建立という. ヘルツェゴビナ地方を代表するモスクで,またメドレセも併設され,教育の役目も担っていた(或いは今も?)そうである.

以上南バルカン紀行2013/モスタルのページから.

コスキメフメットパシナモスク(ボスニアヘルツェゴビナ)

モスタル(Mostar)のコスキメフメットパシナモスク(Koski Mehmed pasha's mosque)

モスタル(Mostar)のコスキメフメットパシナモスク(Koski Mehmed pasha's mosque)

スタリモスト橋の手前にこのコスキメフメットパシナモスク(Koski Mehmed pasha's mosque)があった.川の対岸(右岸)に立つと,淡い色あいのモスクとミナレット全景が望める.このモスクは1618年の建設で,上記カラジョズベゴヴァモスクから半世紀ほど遅れての建設のようだ.

以上南バルカン紀行2013/モスタルのページから.

チャルシイスカモスク(ボスニアヘルツェゴビナ)

サラエボ(Sarajevo)のチャルシイスカモスク(Carisijska dzamija)

サラエボ(Sarajevo)のチャルシイスカモスク(Carisijska dzamija)

バシュチャルシヤ広場に面してこのモスクの木戸があった.チャルシイスカモスク(Carisijska dzamija)と呼ばれるそうだ.一般にモスクは開放的な場合が多いように思うが,このモスクは塀が巡らされ,門が設けられている.会員制信徒のモスクなのであろうか.

以上南バルカン紀行2013/サラエボのページから.

ガジフスレヴベイモスク(ボスニアヘルツェゴビナ)

サラエボ(Sarajevo)のガジフスレヴベイモスク(Gazi Husrev-beg's mosque)

サラエボ(Sarajevo)のガジフスレヴベイモスク(Gazi Husrev-beg's mosque)

サラエボで最大規模のモスクで,1530年統治者ガジフスレヴベイ (Gazi Husrev BeyまたはGazi Husrev-Beg :1480~1541年) によって彼自身のために建てられたそうだ.この人は非常に有能な戦術家で,オスマン帝国支配下のボスニアの知事を務め,ここサラエボの建設に尽力した人物だという.

以上南バルカン紀行2013/サラエボのページから.

フェルハディアモスク(ボスニアヘルツェゴビナ)

サラエボ(Sarajevo)のフェルハディアモスク(Ferhadija mosque)

サラエボ(Sarajevo)のフェルハディアモスク(Ferhadija mosque)

フルハトパシャモスク(Ferhat-Pasha Mosque)と呼ばれることもあるようだ.16世紀建立で,写真で見えるように礼拝堂上の大きなドームに,その前の回廊(縁側)上の3つの小ドームが当時のオスマン様式をよく伝えているそうだ.

以上南バルカン紀行2013/サラエボのページから.

ハミのエイティガールモスク(中国新疆ウイグル)

ハミ(Hami)のエイティガールモスク(Id Kah Mosque)

ハミ(Hami)のエイティガールモスク(Id Kah Mosque)

初代ハミ王によって創建されと伝えられるエイティガールモスク(Id Kah Mosque).同名のモスクがカシュガルにあり,そちらはかなり有名だ.イティガールとは『祭日の活動の場所』といった意味らしいが,その名のように現在は金曜礼拝を含めて日常の礼拝には用いられず,専らイスラムの特別の祭礼に使われているそうだ.

以上天山北路を行く2013/ハミ(哈密)のページから.

ウルムチの回族南大寺(中国新疆ウイグル)

ウルムチ(Urumqi)の回族南大寺

ウルムチ(Urumqi)の回族南大寺

これを見せられてまたびっくり,一瞬『うそ~っ』と思ってしまった.仏教の寺,いや道教のお堂...としか見えない.実はウイグル族ではなく回族のイスラムモスクで,回族は漢字を使い,漢族の文化を大いに採り入れているのだそうだ.驚いた,世界各地で眺めたモスクのイメージとは随分違う.

以上天山北路を行く2013/ウルムチ(烏魯木斎)後半のページから.


Cannergy'sホームへ