このページでは既存ページから転載し,ウパール村の墓(新疆ウイグル),香妃の墓(同),ヤルカンド王陵(同),アマニサハン墓(同),アスターナ古墳群(同),トフェの遺跡(チュニジア),ミケーネ遺跡の円形墓地(ギリシャ),パシュパティナート(ネパール),崇徳祠(中国),武候祠(同),仏歯寺(スリランカ),モハメッド5世廟(モロッコ),イドリス2世廟(同),サード王朝のお墓(同),サーディ廟(イラン),ナグシェロスタム(同),シェーキングミナレット(同),グリアミール廟(ウズベキスタン),ヒャーヒズィンダ廟(同),イスマイールサマニ廟(同),サンタクローチェ教会(イタリア),サンティアゴデコンポステーラ(スペイン),バスコダガマの棺(ポルトガル),フーマユーン廟(インド),インド門(同),ラージガート(同),タージマハル(同),ネクロポリス(トルコ),ギザのピラミッド(エジプト),カタコンベ(同),サッカラの階段ピラミッド(同)の写真を載せました.
ウパール村の墓(Upar Cemetery)
ウパール村近くに,墓石がメッカの方向と関連付けられ並ぶ墓地があった.一般のイスラム教徒の墓地であろう.
以上新疆ウイグルの旅2005/カシュガルのページから.
カシュガルの香妃の墓(アバクホジャ一族の墓)(Abak Hoja Tomb in Kashgar)
アバクホジャは,17世紀頃,ここら新疆南部を支配したイスラム教指導者で支配者だそうである.元々,1640年彼が父のために立てた墓が,後に大規模化され,一族の墓となったようである.彼の孫娘の一人,香妃は,清朝乾隆帝に気に入られ,彼の後宮に入ったということである.「香妃」の名は,彼女の身体からナツメの花のようなかぐわしい香りが漂っていたことから名付けられたという.しかし,何らかの事情で後に権力闘争に巻き込まれ,自刃を強いられたという.その彼女の遺体がこの陵墓に葬られているという伝説から,香妃の墓とも呼ばれるようになったようだ.
以上新疆ウイグルの旅2005/カシュガル(続)のページから.
ヤルカンド(莎車)王陵(Yarkand Cemetery)
アラベスクとウイグル文字で装飾された石棺や四角形,六角形の墓が並んでいる.ヤルカンド(莎車)王国一族の墓だ.ヤルカンド国の初代王は1514~1680年の人物のようだ.日本では義昭は将軍の地位を解任され,室町時代が終焉し,織田信長(1534~1582年)が天下を取った頃に相当するであろう.
以上新疆ウイグルの旅2005/ヤルカンドのページから.
ヤルカンドのアマニサハン墓(Tomb of Aman Isa Khan in Yarkand)
アマニサハンはアブドリシチという方の妃で,1526年生まれで1560年に没した.彼女は傑出したウイグル詩人で,ウイグルの古典音楽「ムカム十二篇」を収集しまとめたそうである.13歳で宮廷に召されたが,34歳のとき難産のため亡くなったということである.前述の莎車王陵の一画というか,独立した広い土地にアマニサハン記念陵がある.
以上新疆ウイグルの旅2005/ヤルカンドのページから.
トルファンのアスターナ古墳群(Astana Karakhoja tombs in Turpan)
火焔山の麓に位置する.アスターナ古墳群は6~7世紀に繁栄した高昌国時代の貴族の古墳群で,その数は500以上あるそうだ.その中の2つを見た.それぞれ地面からスロープを下った地下の洞窟になっている.乾いた土地柄故,遺体はミイラとなり残っている.また玄室壁面には繊細な色彩の花鳥画が残されていた.
以上新疆ウイグルの旅2005/トルファンのページから.
トフェの遺跡(Tophet in Tunisia)
紀元前800年頃フェニキア人によって造られたカルタゴはローマ人との3度の戦争(ポエニ戦争)により,紀元前146年に壊滅.このときローマ人はフェニキア人の興隆を妬んで,草木も生えないように塩を撒き,ほぼ完璧に破壊し尽くしたそうである.そんな中でここトフェの遺跡は例外的に残されたものであるようだ.これら立ち並ぶ小さな墓石から幼児の炭化した遺骨が300体ほど発見されたそうである.「祭司は儀式の際,子ども達の首を切り,燃えさかる炎の中に入れ...」という記録がローマ側に残っているそうで,他の記録共々「幼児生贄」の習慣としてとして知られという.
以上チュニジアの旅2005/カルタゴのページから.
ミケーネ遺跡の円形墓地(Circle of royal tombs at the Mycenae ruins)
ミケーネ遺跡は彼の有名なハインリッヒシュリーマンが1876年に発掘したのだそうである.城壁で囲まれた宮殿内部にあるこの円形墳墓(墳墓A)は石板を1mほどの幅で隔てて二重の円形を描くように立てられ,中に6個所の王家用の長方形竪穴式墳墓を造り,王とその家族が埋葬されていたそうである.
以上アテネの旅2004/ミケーネ遺跡のページから.
カトマンドゥのパシュパティナート(Pashupatinath in Kathmandu)
ヒンドゥー教寺院パシュパティナートを訪れた.パシュパティナートはネパール最大のヒンドゥー寺院であるそうで,ガートの脇に火葬場があり,火葬の最中であった.パシュパティナートの周りには牛は当然として,犬や羊,野生の猿などいろいろ遊んでいる.
以上タンボチェトレッキング2004/10日目:2004年10月290日(金)のページから.
都江堰の崇徳祠(Erwang or Two Kings Temple in Dujiangyan)
都江堰は戦国時代に秦の昭王が在位の紀元前276年~256年,蜀の郡守であった李氷とその子李二郎が指揮して工事を行ったそうである.その李親子を記念するため南北時代に建立されたのが,写真の崇徳祠であるそうだ.なお「崇徳祠」の名称はある時から「二王廟」に名前変わったようである.
以上四川省の旅2004/都江堰のページから.
成都の武候祠(Wuhou Temple (Wuhouci) in Chengdu)
国時代の蜀の国王,劉備玄徳と宰相で名軍師の諸葛孔明を祀る廟である.もともとこの地には劉備玄徳の墓があり,後世,別の場所にあった孔明の墓がここに移されたという.武候祠の名は,諸葛孔明の死後のおくり名,忠武候から採られたものである.また劉備玄徳ののおくり名は昭烈で,この写真の大門の横額には,ちょっと暗く写っているが「漢昭烈廟」と掲げられており,これが正式名称であろう.しかし四川の人々は孔明により親しみを感じるらしく,一般には「武候祠」と呼称されているようである.
以上四川省の旅2004/成都2のページから.
キャンディの仏歯寺(Dalada Maligava(Temple of the Tooth) in Kandy)
ここに納めらた仏歯は紀元前543年釈迦が火葬されたときのもので,4世紀にインドのカリンガの王子がこの島に持ち込んだものとされているそうだ.当初都のあったアヌラーダプラに納められ,遷都の度に一緒に運ばれたそうで,ここキャンディに来たのは1590年だったそうだ.
以上スリランカの旅2004/キャンディのページから.
ラバトのモハメッド5世廟(Mohammed 5 Mausoleum in Rabat)
モハメッド5世は1956年フランスからの独立の父だそうで,現代モロッコにとって最も重要な方であろう.廟の壁や柱に大理石が使われている.これらの大理石はイタリア産で,同じ重さの砂糖と交換されたものだという.イタリアに送った砂糖は食べられて無くなったが,大理石はこうして立派に残った.”イタリア人はあほ”とモロッコの人々は言っているそうであるが.....
以上モロッコの旅2003/ラバトのページから.
フェズのイドリス2世廟(Zaouia Moulay Idriss in Fes)
モロッコ最古のイスラム王朝創始者のムーレイイドリス1世は,8世紀末にバグダッドでの反乱に失敗し,モロッコに亡命.ここで先住民ベルベル人の信頼を得てイスラム王朝を興したのが始まり.イドリス2世(若しくはムーレイイドリス)は,その第2代目の支配者でフェズを建設した人,と云うことである.しかしてフェズの守護聖者として崇拝され,聖者をたたえる祭が年1回盛大に繰り広げられるそうである.
以上モロッコの旅2003/フェズのページから.
マラケシュのサード王朝のお墓(Saadin Tombs in Marrakech)
16世紀サード朝王族の墓で,代々のスルタン(イスラム王朝君主)が葬られているそうである.右写真は確か王妃と子供たちの墓のある建物で,入り口からの通路をくぐった直ぐのところに諸王の棺が安置されていた.庭には家臣や関係者の棺が多く横たわっている.殆どはイスラム教徒であるから,顔がメッカの方向に,つまり棺は同じ方向に向いているが,一部非イスラム,多分ユダヤ教徒かキリスト教徒,の墓が別の方向を向いて安置されている.このような王族クラスの墓でさえも異教徒を同列に葬ることを許容していたことから,本来イスラムがユダヤ教徒とキリスト教は同じ啓示の民として対決ではなく共存してきたことがよく分かる.
以上モロッコの旅2003/マラケシュのページから.
シラーズのサーディ廟(Sadi Mousleum in Shiraz)
シラーズにはイランの著名な詩人だというゴレスタンサーディの墓があった.廟の壁に詩の一部が記され,ガイドのムハンマドさんが読み,解説してくれた.イランでは詩を愛する人が多いようだ.
以上イランの旅2003/シラーズのページから.
ナグシェロスタム(Naqsh-e-Rostam)
アクメネス朝時代の王墓ナグシェロスタムはペルセポリスから近い場所にある.岩山の側面に掘り込まれた構造で,ちょっとぺトラ遺跡と似た面がある.アクメネス朝の方がより古いか?この近くは人口灌漑であろうか,広い畑があり,とうもろこしなどが緑に輝いていた.
以上イランの旅2003/ペルセポリスのページから.
スファハンのシェーキングミナレット(Shakable Minarets in Esfahan)
正式にはミナールジョンバンと呼ばれるそうだ.1326年に亡くなったアムーアブドラという方の墓だそうである.だから相当古いのだ.本堂両側のミナレットの片側に登って揺らすと,他方のミナレットも揺れる構造になっている.屈強な男が片方のミナレットに登って揺らすのだ.塔に登る前に見得を切って観衆の期待に応える.いよ~日本一~,いや,イラン一!
以上イランの旅2003/イスファハンのページから.
サマルカンドのグリアミール廟(Gur Emir mausoleum in Samarkand)
グリアミールとは「支配者の墓」の意で,ティムールとその一族の墓9つがあるそうだ.ティムールは1404年孫のムハンマドスルタンの死を悼んでこの廟の建設を命じた.ところが翌年1月,ティムール自身が病死,孫と共に葬られることになったそうだ.1941年ソ連のアカデミー考古学者ミハイル・ゲラシモフらによって本殿内の墓が開けられ,ティムールがシルスタンの戦いで手足を失ったことや,ウルグベクが首をはねられて死亡したことが確かめられたのだという.
以上ウズベキスタンの旅2003/サマルカンドのページから.
サマルカンドのヒャーヒズィンダ廟(Shahizinda Mousleum in Samarkand)
ヒャーヒズィンダ廟とは生きている王」の意味,ティムール一族や縁者の墓のある廟群で,通路の両側にモザイクタイルの廟が並んでいる.建設は11~15世紀に渡り,最も新しい入口の門には「この壮麗な建物はヘジラ883年(西暦1434年)ウルグベク(ティムールの孫)の子アブドラジズハンによって建てられた」と記されているそうだ.
以上ウズベキスタンの旅2003/サマルカンドのページから.
ブハラのイスマイールサマニ廟(Mausoleum of the Samanids in Bukhara)
9世紀末から10世紀,ウズベキスタンからアフガニスタンの1部にかけて勢力を築いたサーマン朝の事実上の創始者イスマイル(名目上は兄のナスル)の墓.900年に建てられたイスラム初期の建築様式.焼き煉瓦の組み合わせで壁面が日光や月光の角度に応じ,様々な模様,色彩,陰影を見せるように工夫されている.
以上ウズベキスタンの旅2003/ブハラのページから.
フィレンツェ/サンタクローチェ教会(Santa Croce church in Firenze)
14世紀後半に完成したゴシック形式の聖堂にはミケランジェロやガリレオ,作曲家のロッシーニなどの著名人の墓が多数あることでも知られているそうである.
以上イタリアの旅2003/フィレンツェのページから.
サンティアゴデコンポステーラ(Santiago de Compostela)
エルサレムで殉教したイエスキリストの12使徒の1人,聖ヤコブ,スペイン語名ではサンティアゴとなるそうだ.スペインにおいて布教活動を行い,エルサレムに帰還するが,ヘロデ王によって断首され十二使徒のうち最後の殉教者となったそうである.亡骸は海路この地に運ばれ,葬られたという伝説があったそうだ.またSantiago de CompostelaのCompostelaは,ラテン語のCampus stellae(星の野)若しくはCompositum(墓場)にちなんで名付けられたそうである.つまりサンティアゴデコンポステーラとは「星の野の聖ヤコブ」ということになろう.やがて9世紀,聖ヤコブの墓が発見され,ほどなくしてその上に聖堂が建立されたそうだ.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/サンティアゴデコンポステーラのページから.
ジェロニモス修道院のバスコダガマの棺
(coffin of Vasco da Gama at monastery of the Hieronymites)
バスコダガマはポルトガル王マヌエル1世の命で,1497年喜望峰を通過し,1498年インド南西のカリカットに到達した.依頼主のマヌエル1世はバスコダガマの海外遠征/香料貿易で大儲け,いやそれこそ巨万の富を得て,その金で造らせたというジェロニモス修道院.そこにバスコダガマの棺があった.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/リスボンのページから.
デリーのフーマユーン廟(Humayun's Tomb in Delhi)
ムガール帝国第2代皇帝フマユーンの墓廟で白大理石と赤砂岩の組み合わせが美しい.タージマハルのモデルとなったとも言われるこの廟は,ペルシャの建築家ミラク・ミルザー・ギヤースの設計によるもので,イスラム廟であるに拘わらず壁面装飾にユダヤ教やキリスト教様式の要素も取り入れ,美しい折衷様式となっている.1993年世界文化遺産指定されたそうである.
以上インドの旅2002/デリーのページから.
デリーのインド門(India Gate in Delhi)
第一次世界大戦の戦死者を祀った慰霊碑,インド門を訪れた.イギリス軍兵士としてヨーロッパの戦場で没したインド人兵士は9万人にのぼるそうだ .
以上インドの旅2002/デリーのページから.
デリーのラージガート(Rajghat in Delhi)
非暴力,不服従を唱えイギリス植民地支配からの独立を勝ち取った建国の父マハトマガンディーを祀った墓.アーリントンのケネディの墓と同じように永遠の灯が燈されていた.
以上インドの旅2002/デリーのページから.
アグラのタージマハル(Taj Mahal in Agra)
ムガール帝国第5代皇帝シャージャハーンが愛妻タージのために,幅300m奥行き580mの敷地に建てた左右対称の白い霊廟がこのタージマハル.ただ皇帝シャージャハーンは,あまりにも贅を凝らし,霊廟建設に没頭したため国家の財政を傾けてしまった,と云うのが実相のようだ.それ故か実の息子,アウラングゼーブ(第6代皇帝)の手によって,シャージャハーンはアグラ城に幽閉されてしまった.幽閉された皇帝は毎日この霊廟を囚われの塔より眺めていたということだ.嗚呼!悲しい!
以上インドの旅2002/アグラのページから.
トルコ/パムッカレのネクロポリス(Necropolis in Pamukkale)
パムッカレの丘の上にあるが,山麓住民の埋葬もあったので住民の数より多くの墓があったそうな.確かに1遺体用,家族4人用と,おびただしい数の石棺である.ただ何処も同じ,盗掘でかなりは破損している.
以上トルコ/エジプトの旅2002/パムッカレのページから.
ギザのピラミッド(Pyramids in Giza)
親子3代のファラオ,クフ王,カウラー王,メンカウラー王で知られるギザにあって,写真は最も大きなクフ王のピラミッド.約4000年前に造られたそうだ.大きさはクフ王,カウラー王,メンカウラー王の順に小さくなり,これ即ち,権力の大きさの縮小と言えるようである.なおツタンカーメンやラムセスⅡ世が登場するのはこの後1000年の時を経てからということだ.
以上トルコ/エジプトの旅2002/ギザのページから.
アレキサンドリアのカタコンベ(Catacomb in Alexandria)
カタコンベと呼ばれる地下墓地の内部.柱頂部などはローマ風(もしくはグレコローマン風か?)文様に見え,壁画は明らかにエジプト風である.この部屋の三方の壁には棺を収める窪みがあり,高貴な家族用の玄室のようである.
以上トルコ/エジプトの旅2002/アレキサンドリアのページから.
サッカラの階段ピラミッド(Step Pyramid in Saqqarara)
エジプト初の石(それまでは日干しレンガ)のピラミッド.石材物としても世界最古の建造物.紀元前2650年,古王国3王朝,ジェセル王が建造した.石積み6段,縦140m×横128m,高さ60m=ビル15階相当の大きさである.
以上トルコ/エジプトの旅2002/メンフィスとサッカラのページから.