このページでは既存ページから転載し,デチャニ手前の墓地(コソボ),ベラート合同墓地(アルバニア),ガジフスレヴベイ墓(ボスニアヘルツェゴビナ),ハミ王墓(中国新疆ウイグル),烏孫古墳(同),カザンラクのトラキア人の墳墓(ブルガリア),ブカレスト革命広場慰霊塔(ルーマニア),ビエルタン要塞の聖職者霊廟(同),シギショアラ旧市街の山上教会墓地(同),ブエノスアイレスのレコレータ墓地(アルゼンチン),台北の行天宮(台湾),台北の中正記念堂(同),台北の国民革命忠烈祠(同),太魯閣渓谷の長春祠(同),台東のお墓見本(同),台東のクリスチャン墓地(同),高雄の忠烈祠(同),慈済宮(同),延平郡王祠(同),日月潭畔の文武廟(同),霊安故郷の碑(同),コンヤのメヴラーナ霊廟(トルコ),ネムルート山(同),カイセリのドネルキュンベット(同),アンカラのアタチュルク廟(同),イスタンブール考古学博物館のアレキサンダー大王石棺(同),韓国の一般的墓(韓国),慶州の大陵苑(同),ソウルの宗廟(同),ミーソン辺り水田のお墓(ベトナム),フエのクリスチャンの墓(同),フエのカイディン帝廟(同),フエのトゥドゥック帝廟(同),ハノイのホーチミン廟(同),ハノイの玉山祠(同)の写真を載せました.
デチャニ(Decani)手前のイスラム墓地"
現在殆どアルバニア人の地であるコソボ内にセルビア人建立のセルビア正教総本山とも言うべき聖地がデチャニ.その少し手前の村に十字架のないイスラムの墓地があり,綺麗に花が飾られている.つい近年まで続いた民族浄化のコソボ紛争時,セルビア人エリアが混在するこの辺りは特に多くの埋葬者があったのであろう.墓石には生年と没年が記されており,仔細に見ると1990年代後半から2000年代始めの没年が殆どのようで,戦没者専用墓地かも知れない.
以上南バルカン紀行2013/デチャニのページから.
ベラート合同墓地(Berat cemetery)
ベラート城ルート途中に墓地があった.多くの花が飾られていた.ここはモズレムもクリスチャンも埋葬される共同墓地だそうである.きっとその方がいいと思う.
以上南バルカン紀行2013/ベラートのページから.
ジフスレヴベイ墓(tomb of Gazi Husrev-beg)
オスマン帝国支配下のボスニアの知事,統治者ガジフスレヴベイ (Gazi Husrev BeyまたはGazi Husrev-Beg :1480~1541年) によって彼自身のために建てられたガジフスレヴベイモスク(Gazi Husrev-beg's mosque)の脇に建てられた墓地.
以上南バルカン紀行2013/サラエボのページから.
ハミ王墓(Hami King Tomb)
ハミ王国は,中原を抑えて打ち立てた清朝(1644年~1912年)の時代に,この新疆東部ハミ地方を,主にウイグル族の統治を担った王国で,9代の王が1700年代初頭から1930年代までの223年間に渡り支配したそうだ.
以上天山北路を行く2013/ハミ(哈密)のページから.
烏孫古墳(ancient tombs of Wusun tribe)
なだらかな丘陵に幾つかの盛り土のようなものが見えて,ここで説明を聞く.2000年以上前,紀元前2世紀ころの烏孫人の墓と見られるのだそうだ.ここはトルファンなどタクラマカン砂漠地方と比べると水分が多く,ミイラにはならず白骨として残ったものが出土したそうだ.烏孫人は奇数を好んだようで,古墳も必ず奇数の小山が一列に築かれているそうだ.この写真中程で小山の列が2列程見えているが,山の数は必ず奇数個だそうである.
以上天山北路を行く2013/イーニン(伊寧)のページから.
カザンラクのトラキア人の墳墓(Thracian Tomb of Kazanlak)
トラキア人は紀元前5千年頃にはここブルガリアやバルカン各地に生活していたと考えられているそうだ.そしてこの墓が作られた紀元前4世紀頃にはギリシャやマケドニア文化の影響を強く受け,ギリシャ語が公用語になり,さらに時代が下ると今度はローマ帝国の支配でローマ化されていったようだ.
カザンラク(バラの谷)周辺にはトラキア人の古墳がたくさんあるのだがほとんどは盗掘され,荒らされているのだそうだ.ただここの墳墓だけは自然の山の斜面を掘って作られていたため比較的発見されにくく,宝飾品はかなり奪い去られていたが壁画の損傷は免れていたそうだ.そして,第二次大戦中の1944年,防空壕を掘っている際に偶然発見され,以来保存されるに至ったという.1979年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に指定された.
以上東欧紀行2013/カザンラクのページから.
ブカレスト革命広場慰霊塔
旧ルーマニア共産党本部手前の革命広場に立つオベリスク状慰霊塔.1989年,ルーマニア共産党『チャウシェスク王朝』に立ち向かい犠牲になった市民の慰霊塔だ.
以上東欧紀行2013/ブカレストのページから.
ブランの墓地(Bran Cemetery)
ドラキュラ伯爵で知られるブラン城近くに墓地があった.キリスト教のお墓であるが,イスラムのように整列した墓石がこの辺りの墓地の形式であろうか.
以上東欧紀行2013/ブランのページから.
ビエルタン要塞(Fortified Church in Biertan)の聖職者霊廟
世界遺産『要塞聖堂』で知られるビエルタン要塞の一画には聖職者の霊廟が祀られている.
以上東欧紀行2013/ビエルタンのページから.
シギショアラ旧市街の山上教会 (Church on the Hill)の墓地
シギショアラ旧市街の山上教会の前面に大きな墓地が広がっている.地元有力者が埋葬れたそうで,多くはドイツ系の人達であったようだ.
以上東欧紀行2013/シギショアラのページから.
ブエノスアイレスのレコレータ墓地(Recoleta Cemetery)
都心近くのレコレータ墓地を訪ねた.実に立派なお墓が整然と並んでいる.限られた土地なので,ブエノスアイレスで余程の名士,名家でないことにはここで眠ることは叶わないそうだ.一定のサイズに区画された墓所内部は,一般に地下室が2,3階あり,そこに設けた棚に棺が安置されるということだ.一際混み合う一画があった.元アルゼンチン大統領フアンペロンの妻エバペロン氏の墓所で,その人柄は今でも市民の人気が高いそうだ.
以上パタゴニア紀行2013/ブエノスアイレスのページから.
台北の行天宮(Xingtian Temple)
台北で大変有名な関帝廟がこの行天宮なのだそうだ.ただし台湾道教の特徴である,他にも数人の神も同時に祀られているそうだ.多い日は一日二万人もの参拝者があるそうだからすごい.お線香を翳してお祈りする作法は他の台湾寺社と同じだ.後ろに用意されたテーブルに置いた供物は普通持ち帰るという.お参りすれば霊験あらたか,『お陰で事業成功した』と100万元単位で寄進する人も稀ではないそうだ.
以上台湾めぐり2012/台北のページから.
台北の中正記念堂(National Chiang Kai-shek Memorial Hall)
中華民国初代総統蒋介石(本名:中正)の記念堂.中国の伝統的な宮殿陵墓のデザインであるそうだが,陵墓自体は他所に設けられているそうだ.巨大な大理石の建物は実に壮大で立派だ.同じく大理石製霊廟のタージマハルなどど比べても何ぼか大きいように見える.記念堂最上階の大広間に蒋介石像が据えられ,傍らには衛兵が銃を持ち守っている.また資料館も併設され蒋介石に関する様々な資料や物品が展示されている.
以上台湾めぐり2012/台北のページから.
台北の国民革命忠烈祠(The National Revolutionary Martyrs' Shrine)
辛亥革命始め,中華民国建国および革命,抗日戦争などで戦没した英霊を祀る祠.日本の靖国神社に相当し,高雄寿山公園でお参りした忠烈祠と同じ.
以上台湾めぐり2012/台北のページから.
太魯閣渓谷の長春祠
太魯閣渓谷沿いの東西横貫公路建設では212名の犠牲者が出た.長春祠はそれらの人々の霊を弔うため1958年に建てられた祠だそうである.
以上台湾めぐり2012/太魯閣渓谷のページから.
台東のお墓見本
街道脇にお墓の見本が並んでいた.お墓建設会社の商品見本であろう.台湾のお墓は寺院や宮と同系統のデザインで,そのミニチュア版と云った趣だ.
以上台湾めぐり2012/台東のページから.
台東のクリスチャン墓地
台湾東海岸沿いは先住民が多く住むが,多くはクリスチャン(主にカトリック)だそうである.その昔,イエズス会等がカトリックの布教活動を進めたとき,既に道教や仏教信仰に篤かった漢人を改宗させるのは容易でなく,自ずと原住民がその対象とされ,帰依したのが理由だそうだ.
以上台湾めぐり2012/台東のページから.
高雄の忠烈祠(Kaohsiung Martyrs' Shrine)
高雄の寿山公園の一画には忠烈祠と呼ばれる民国のために戦死した英霊が祀られた神社があり,お参りした.日本の靖国神社に相当するが,対共産軍戦で亡くなった兵士もさることながら,抗日戦争に戦った兵士も多いようで,ここに参拝するのは実に複雑な心境とならざるを得ない.
以上台湾めぐり2012/高雄のページから.
慈済宮
蓮池潭の反対側に慈済宮という立派な寺院が建てられている.保生大帝とも掲げられている.保生大帝の本名は呉本で,今から1,000年ほど昔,北宋の高名な医師で,当時流行った疫病などから多くの人の命を救ったそうである.そして,神として崇められ,祀られるに至ったということだ.
以上台湾めぐり2012/高雄のページから.
延平郡王祠(Koxinga's Shrine)
オランダ軍を撃退した鄭成功は,残念ながら38歳という若さで1662年に死去したそうだ.明王朝の再興に尽力したものの叶わなかったが,ここ台湾で漢人政権の礎を築いたということで神として崇められ,ここ延平郡王祠に祀られたということだ.
以上台湾めぐり2012/台南のページから.
日月潭畔の文武廟(the wenwu temple)
前殿,中殿,後殿が階段上に連なる中華様式の立派な廟である.前殿は学問の神様という文昌帝君と云う方(ともうひと方),中殿は関羽将軍(ともう一人)を祀った武廟,後殿は文廟(孔子廟)ということだ.
以上台湾めぐり2012/日月潭のページから.
台中の霊安故郷の碑
太平洋戦争時,日本軍に駆り出され,南方戦線などで戦死した高砂族など3万人余の台湾人の霊を祀る碑が宝覚寺境内にあった.言わば靖国神社の代わりの役割と見ることもできよう.碑の傍には観音堂と日本人遺骨安置塚も設けられている.遺族や同胞からは,一部やはり反対の声もあったそうだが,親日家の前李登輝総統らの尽力で実現したそうだ.
以上台湾めぐり2012/台中のページから.
コンヤのメヴラーナ霊廟(the Mevlana museum)
コンヤで現在メヴラーナ博物館となっている一画に,旋回舞踏(スーフィーダンス)で知られるメヴラーナ教団の創始者メヴラーナ師(我が師の意で,本名はジェラルディンルーミーというそうだ)の霊廟が祀られている.元々はモスクであるが,アタチュルクが初代大統領に就任したとき,政教分離の一環として,教団は解散,旋回舞踏は禁止となり,1927年この霊廟兼モスク,修道場は博物館となったそうである.
以上トルコ紀行2012/コンヤのページから.
ネムルート山(Nemrut Dag)
標高2,100mネムルート山東西2つのテラスには石像の首が並んでいる.その少し上に胴体(坐像)部分が並んでいる.落ちたものか,或いは人為的に落とされたのか.石像群は紀元前62年,コンマゲネ王国の王アンティオコス一世がに建てたそうだ.多神教の宗教施設説,或いはアンティオコス一世が埋葬された墳墓説などがあるそうだが確たる証拠はまだないということだ.写真左側がアンティオコス一世のようだ.
以上トルコ紀行2012/ネムルート山のページから.
カイセリのドネルキュンベット(Doner Kumbet)
1218年,カイセリのフナトゥハトゥンモスクと同じくセルジューク朝スルタンのアラディンカイクバード一世が,無くなった愛娘シャージハンハトゥンのために建てた霊廟だそうである.ドネル(Doner)はドネルケバブのそれと同じ,回転とかねじれの意味で,基部がねじれたデザインだからだそうだ.
以上トルコ紀行2012/カイセリのページから.
アンカラのアタチュルク廟(Ataturk's mausoleum)
トルコ共和国建国の父,初代大統領ムスタファケマルアタテュルク(Mustafa Kemal Ataturk)の巨大なな霊廟.陸海空の兵士が守る中,大勢の参拝者が詰めかけてくる.
以上トルコ紀行2012/アンカラのページから.
イスタンブール考古学博物館のアレキサンダー大王石棺(coffin of Alexander the great)
巨大な大理石に入り組んだ彫刻が施されている.こんな細かいものをよく彫ったものだ,そして2000年以上経つのにまるで最近彫られたかのようにピカピカなのには驚く.これらのレリーフはアレクサンダー大王がペルシャ軍と戦う様子を彫ったもだそうで,今は殆ど落ちているが彩色が施されていたようだ.なおこの石棺自体に大王が収まったのではなく,家臣が自ら入る棺に大王の業績を称えるために彫ったものであるそうだ.
以上トルコ紀行2012/イスタンブールのページから.
韓国の一般的墓
韓国の道路から見える丘の斜面には写真のような土饅頭のお墓が頻繁に見える.韓国では宗教に依らず亡くなった人を,陽当りの良い斜面に墓地を確保し,土葬するのが慣わしだそうである.
以上韓国の旅2012/慶州(キョンジュ)のページから.
慶州の大陵苑(Daerungwon)
三国時代の新羅(59AD~668AD)および統一後の新羅(668~935)通して都が置かれた慶州.その一画を占める大陵苑の23基を含めて,慶州には150基余りの古墳があるそうで,王族の墓であろうとされているそうだ.発掘された『天馬塚』からは出土した黄金の冠とか,天馬が描かれた白樺の皮製馬具などは実に素晴らしい.
以上韓国の旅2012/慶州(キョンジュ)のページから.
ソウルの宗廟(Jongmyo Shrine)
李氏朝鮮王朝(1932~1910年)の祖先祭祀場であって,李朝歴代27代の王と王妃の位牌が祀られているそうだ.人が亡くなると魂は天に(→宗廟),肉体は地に(→墓地)帰るという儒教の教えに基づくそうで,墓地は別の場所にあるそうである.
以上韓国の旅2012/ソウルのページから.
ミーソン(My Son)辺り水田のお墓
水田が広がっている.二期作だそうだ.水田の中に大きなお墓が見えている.宗教に依らず一人ひとりが土葬で埋葬されるそうで,お墓だけは日本より立派です,とガイドHさんの解説あり.
以上ベトナム紀行2012/ミーソンのページから.
フエ(Hue)のクリスチャンの墓
ベトナムはどこでも墓だらけというくらい墓が目立つが,こうしてクリスチャンだけの集まった墓なども見られる.棺が同じ方向に整然と揃っている.
以上ベトナム紀行2012/フエのページから.
フエ(Hue)のカイディン帝廟
この廟は,1802年に政権を握ったグエン(阮)朝の第12代皇帝がカイディン(啓定)帝(在位1916-1925年)の廟だそうだ.階段の龍や柱にあしらわれた文様など含めて外観は中国風に強く感じられるが,建築材料には当時仏で主要建材であったコンクリートが多用されている.ただコンクリートは風化し易いので傍で見るとちょっと安っぽい印象を受ける.
以上ベトナム紀行2012/フエのページから.
フエ(Hue)のトゥドゥック帝廟
グエン朝第4代皇帝トゥドゥック帝(在位1847年-1883年)の廟を訪れた.トゥドゥック帝廟はとても広く,多くの建物が建てられている.トゥドゥック帝は幼年時天然痘を罹い,身体が弱かったという.そのため政はさておき,詩歌や絵画に励んだ面があるそうだ.また建物すべてに『謙』の字が含まれるが,これは自ら謙虚であるべきとの自戒の念が込められているとも言われるようだ.
以上ベトナム紀行2012/フエのページから.
ハノイのホーチミン廟
初めはベトナム民主共和国,後にはベトナム社会主義共和国全土建国の父となったホーチミンの眠る廟.とても大きな廟で総大理石造りだそうだ.私たちは単に外側を眺めただけだが,廟内にはガラスケースに収められた遺体が安置され,参拝に訪れるベトナムの人々(や観光客)でいっぱいだと聞いた.
以上ベトナム紀行2012/ハノイのページから.
ハノイの玉山祠
この玉山祠は,13世紀,チャン(陳)朝の時代,モンゴル(元)軍の3回にも渡る進撃を見事に撃退したというベトナム史上英雄中の英雄チャンフンダオ(Tran Hung Dao)将軍を祀っているところだそうだ.
以上ベトナム紀行2012/ハノイのページから.