このページでは既存ページから転載し,鹿児島の屋根付きお墓,アベベビキラの墓(エチオピア),カレブ王の墓(同),ラロン聖者廟(バングラデシュ),カンジャハーン廟(同),カミーノ路上トムの墓(スペイン),聖ドミンゴの墓室(同),独立の殉教者記念塔(アルジェリア),マウレタニア王家の墓(同),ティパサの共同墓地(同),コンスタンティーヌ戦没者慰霊門(同),マドラセン王墓(同),シディアイサの墓(同),メリカ一般墓地(同),ベトナム北辺の小祭壇(ベトナム),ビブロス遺跡王族の墓(レバノン),高野山弘法大師御廟(和歌山県),高野山奥の院参道(同),四国遍路無縁墓地(愛媛県),瀋陽の北陵(中国),203高地の忠魂碑(同),シク村墓地(オマーン),聖者ビンアリのお墓(同),ウズゲン霊廟(キルギス),スキタイ古墳クルガン(同),キルギスの墓地(同),羅平の墓(中国雲南省),ボールドケンオスマン墓地(北キプロストルコ共和国),マカリオス大司教の墓(キプロス),パフォス王族の墓(同),聖ラザロの石棺(同),ラケル廟(イスラエル),ダビデ王の墓(同),イエスキリストの墓所(同),キドロン谷墓地(同),サハマのプレインカ墓(ボリビア),アタカマ高地の直方体彩色墓(同),チャルパス墓地(同),ユンガイ慰霊公園(ペルー),リガ自由記念碑(ラトビア),ショパンの心臓(ポーランド)の写真を載せました.
鹿児島の屋根付きお墓(鹿児島)
屋根付きお墓という.ちょっとびっくりした.鹿児島人は先祖を大切に扱うので,火山灰で墓石が覆われるのを避けるためだそうだ.
以上西へ東へ2020/鹿児島めぐりのページから.
アベベビキラの墓(エチオピア)
首都アジスアベバの国立墓地の一画にあるアベベビキラ(Abebe Bikila:1932~1973年)の墓を参拝した.1960年ローマオリンピックでは裸足で走り,当時の世界記録(2時間15分16秒2)で優勝し,アフリカ黒人初の金メダルに輝く.たまたまレース直前に靴が壊れ,現地で新しい靴を買おうと探したが合うものがなく裸足で走ったという.ただ元々地元では裸足で駆け回っており,足裏は十分丈夫だったという.これでアベベはエチオピアの英雄となり,ときのハイレセラシエ皇帝より勲章を授与されたそうだ.なおアジスアベバの標高は2,355mで,エチオピアの多くはこうした高い標高,つまり酸素濃度の低い地にあるので,以来世界で高地トレーニングが注目されるようになったようだ.また次回1964年東京オリンピックでも2時間12分11秒2の世界最高記録で再び金メダルを獲得している(靴は履いてた).
以上エチオピア紀行2020/ティムカット祭のページから.
カレブ王の墓(エチオピア)
アクスムで6世紀頃に建造されたとされる宮殿の地下墳墓.898年にドイツの考古学者が発見し,現在も発掘調査継続中とのことだ.カレブ王,お妃,息子カブラマスカル王の石棺が並んでいる.墓近くではエザナ王が多神教からキリスト教に改宗したこと.当時の軍事経済大国ヌビア(クシュ)のメロエ王国を攻め,大勝したことが,ゲエズ語,サバ語,ギリシア語で記されているというエザナストーンが発見されている.
以上エチオピア紀行2020/アクスムのページから.
ラロン聖者廟(バングラデシュ)
白いラロン聖者廟に到着した.この白い廟中央にラロン(Lalon Shah)の棺が置かれている(屋外の黒い石棺はお弟子さんたち).ラロンはバウル(Bauru:吟遊詩人)で,宗教や民族などの障壁を超える詩を歌いだし,詩と唄を芸術レベルにまで引き上げたということだ.そして細々続いてきたバウルが一気に広まり,多くの人に受け入れられることになったそうだ.廟の先にホールが有り,私達はラロンの流れをくむ実際の現バウルの人々の演技を見せてもらった.
以上バングラデシュ紀行2019/ラロン聖者廟のページから.
カンジャハーン廟(バングラデシュ)
バゲルハットのンジャハーン,正しくはカンジャハーンアリ(Khan Jahan Ali)の廟に着いた.茶色い塀の向こうの肌色ドームを載せた白い四角い建物がカンジャハーン廟だ.カンジャハーンは軍人であったが,一方敬虔なイスラムのスーフィー(スンナ派の律法主義,形式主義を批判し,敬虔な信仰生活を旨とする人々)でもあったそうで,現在も人望が厚い.女性は塀の内側の庭までは入っていいが,白く四角い廟には入れないという掟がある.
以上バングラデシュ紀行2019/バゲルハットのページから.
カミーノ路上トムの墓(スペイン)
サンティアゴコンポステーラ巡礼路,カミーノトレイル脇にケルン,その上に「TOM」と記された墓標があり,写真が添えてあった.
中世のフランス人カミーノは強盗など多く,命がけだったそうだが,現代も事故や病気で落命する人は必ずしも皆無ではないということであろう.
以上フランス人のカミーノ紀行2019/巡礼3日目:パンプローナへのページから.
聖ドミンゴの墓室(スペイン)
巡礼9日目:サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダ大聖堂に到着した.大聖堂地下には聖ドミンゴの墓室が備えられていた.聖ドミンゴは無実の罪で死刑に処された青年を十字架の下で支えて生き返らせたという言われがある.
以上フランス人のカミーノ紀行2019/巡礼9日目:サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダへのページから.
独立の殉教者記念塔(アルジェリア)
1962年7月5日アルジェリア独立記念日の20周年を記念して1982年に設立されたという独立の殉教者記念塔.92mの塔は3枚の椰子の葉を束ねたデザインで,趣旨は毛利元就の三本の矢と同じようである.
以上アルジェリア紀行2018/アルジェ(前)のページから.
マウレタニア王家の墓(アルジェリア)
直径60.9m,高さ32.4mの大きな墓.マウレタニア(Mauretania)は,この辺り古代北アフリカ地中海沿岸に独立したベルベル人(マウリ部族)の王国で,ここ西アルジェリアから北モロッコ,ジブラルタルを含む広大な地域を支配していたそうだ.ただ後はローマ帝国に下り,王国の歴史は閉じたということだ.ユバⅡ世とクレオパトラセレネが眠るとされるそうだ.
以上アルジェリア紀行2018/シェルシェルのページから.
ティパサの共同墓地(アルジェリア)
ティパサ遺跡は最初紀元前7世紀頃,古代フェニキア人によって作られ,その後2世紀にローマの植民都市となり,軍事的拠点として繁栄したそうだ.遺跡の縁の方に,大きな円形の共同墓地(ネクロポリス)が残されている.
以上アルジェリア紀行2018/ティパサ遺跡のページから.
コンスタンティーヌ戦没者慰霊門(アルジェリア)
シディムシッドの丘(Sidi M'Cid Hill)に着いた戦没者慰霊の門が据えられている.門の上には勝利の女神像が置かれ,第一次世界大戦でフランスと共に戦い,市民の命を守ったコンスタンティーヌの人々を記念したメモリアルだそうだ.
以上アルジェリア紀行2018/コンスタンティーヌのページから.
ヌミディア王国マドラセン王墓(アルジェリア)
ヌミディア王国(Numidia kingdomのマドラセン(Madghacen)王墓(と言われる)に着いた.墓の形は以前シェルシェル手前で眺めたマウレタニア王家の墓に似ている.ただその墓はクレオパトラセレネとユバⅡ世王(25BC~AD24)のものとされ,マドラセンはヌミディア王国初期の王なので,こちらが先に作られたようだ.
以上アルジェリア紀行2018/ティムガッド遺跡のページから.
シディアイサの墓(アルジェリア)
シディアイサ(アイサ師 Sidi Aissa)はイバード派のイマーム(Imam)で,私たちが今朝出てきたワルグラから人々を引き連れてこの地に逃れてきたということだ.墓標の上の5本の角はイスラム五行(信仰告白,礼拝,喜捨,断食,巡礼)を表すそうだ.
以上アルジェリア紀行2018/ガルダイアのページから.
メリカ一般墓地(アルジェリア)
メリカの街外れに一般人の墓地があった.中には角つき白い墓標もあるが,多くは砕いた石のままである.
以上アルジェリア紀行2018/ガルダイアのページから.
ベトナム北辺の小祭壇
これはお店の隅っこに置かれた小祭壇の一例だ.ベトナム北辺で一般の家庭や,店舗を覗かせてもらったところこうした,比較的はっきりした宗教に限定されず,仏教,アニミズムなど,いろいろミックスした信仰が多いのだそうだ.
以上ベトナム北辺の旅2018/ハノイ街道のページから.
ビブロス遺跡王族の墓
ビブロスには,古いのは紀元前1900年~1600年頃とされる王族の墓所があった.多くは石棺で深く埋葬されたようである.一番大事なアヒラム王石棺(ベイルート国立博物館に保管)にはアルファベットの元とされる22個の字母から成るフェニキア文字が刻まれている.
以上レバノン紀行2018/ビブロス遺跡のページから.
高野山弘法大師御廟
高野山御供所の先に御廟橋があり,ここを渡る.そして弘法大師御廟燈籠堂があり,ここでろうそくと線香を灯し,般若心経を読む.そして空白だった私の納経帳の第一ページに左の印と墨書きを頂く.
以上半四国遍路2017/遍路23日目のページから.
高野山奥の院参道
高野山奥の院参道には数多くの戦国武将のお墓や,現代各地の家族,企業.団体...等々のお墓が並んでいる.
以上半四国遍路2017/遍路23日目のページから.
四国遍路無縁墓地
第57番 府頭山 無量寿院 栄福寺に向かって歩いているとこうした無縁墓地があった.今は四国遍路で行き倒れることはあまりないであろうが,以前はやはり相当覚悟が必要だったのであろう.
以上半四国遍路2018/遍路11日目のページから.
瀋陽の北陵(中国)
北陵とは瀋陽北部にある後金の二代目,清朝初代皇帝ホンタイジと孝文端皇后の陵墓で,昭陵とも呼ばれるそうだ.昭陵石牌坊,昭陵正紅門,昭陵大碑楼,隆恩殿等々次々と通り,先にはさらに大明楼(写真右多層屋根の建物)があり,その下の回廊を抜けるとアーチ状にカールした焼成レンガ擁壁で囲まれ,半球形盛土のお墓『宝城』およびその内部に玄室が在るとされる.これでようやくホンタイジのお墓にたどり着いたようだ.
以上中国東北紀行2018/瀋陽のページから.
203高地の忠魂碑(中国)
中露日3カ国語で記された標識には,203高地は日露戦争主要戦場の一つで,ロシア側5,000名余,日本側10,000名余の死傷者を出し,後に乃木将軍は砲弾の残片でこの10.3mの砲弾状慰霊碑を建て,爾霊山の3文字を揮毫した,と記され.加えて,今はこの爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱になった,とまで書かれ,甚だ残念だ.
以上中国東北紀行2018/旅順のページから.
シク村(Sayq)の墓地
地面に石の欠片が突き刺してあるので,訊いてみたらシク村(Sayq)の共同墓地ということだ.石片には文字など識別するようなものはなく,極めて簡素なスタイルだ.
以上オマーン縦断2016/涸れ川キャニオニングのページから.
聖者ビンアリのお墓(Mausoleum of the Muslim saint Mohammed Bin Ali al Qalayi)
聖者ビンアリのフルネームはモハメドビンアリアルアラウィ(Mohammed Bin Ali al Alawi)と長く,ただものではない家柄を感じさせる.実際シーア派始祖アリの血筋を引き,その7代目(いや19代目か)のようだ.イエメン南部ハドラマウト渓谷地方,タリム(Tarim)に生まれ,イスラム科学やコーランを最上レベルまで学び,学者およびイスラム法学のイマームとして知られたそうだ.後にここミルバットに移住し,イスラム暦556年(西暦1161年)この地で没したという.
以上オマーン縦断2016/ミルバットのページから.
ウズゲン霊廟(Uzgen tomb)
直ぐ近くのウズゲンミナレットより若干早い時代,カラハン朝時代の11世紀に建造されたと見られているという.焼成レンガ作りである.
以上キルギス紀行2016/ウズゲンのページから.
スキタイ古墳クルガン(Scythian Kurgan)
お椀を伏せた形の円墳だ.一般にこのような墳墓は青銅器時代から遊牧民スキタイ(この地域の諸部族をまとめて指す呼称)の活動したアルタイ地方からコーカサス辺りまで広く分布しているそうだ.ここは紀元前6世紀頃に現れた,スキタイの一部族ペルシャ白人系遊牧民『サカ族』の古墳と見られるという.
以上キルギス紀行2016/スキタイ古墳のページから.
キルギスの墓地(Kyrgyz cemetery)
キルギスの村や町には墓地がとても目立つ.石造りの立派な墓石が多い.
以上キルギス紀行2016/イシククル湖のページから.
羅平の墓(a tomb at Luoping)
菜の花畑を歩いた.歩いた範囲で,写真のような墓石が3,4基見えた.羅平はブイ(布依)族の人が多いのだそうだが,お墓は家族単位ではなく一人ひとり単位で作られるということだ.
以上春の雲南紀行2016/場所のページから.
ボールドケンオスマン墓地(Baldoken ottoman graveyard)
ギルネの街の公園のようになっている土地に,オスマントルコ時代の人物Baldoken ottomanのお墓のようだ.
以上キプロス紀行2016/ギルネ(またはキレニア)のページから.
マカリオス大司教の墓(Tomb of archbishop Makarios III)
マカリオス大司教(Makarios III:1913~1977年)は,キプロス正教の大主教(最高位)であって,しかも初代大統領に就任(1960~1977年)した方だそうだ.今も国民から『キプロス共和国の父』と多大な尊敬を集めているそうだ.大司教は元々この近くの生まれで,13歳でキコス修道院に入り,やがて大司教に就任.そして反英運動の末,独立を勝ち取り,初代大統領に就任した.
以上キプロス紀行2016/トロードスのページから.
パフォス王族の墓(Paphos tombs of the kings)
広大な墓地は紀元前3世紀~AD3世紀頃の墓で,全部で100余りあり,そのうち地下墳墓が11あるそうだ.地下墳墓がだれのものか特定できないが,土地の有力者だったであろうところから『王族の』と呼ばれるようになったようだ.
以上キプロス紀行2016/パフォスのページから.
聖ラザロの石棺(Saint Lazarus' coffin)
聖ラザロ教会地下室奥に聖ラザロの石棺(写真左で少し蓋の開いたもの)が収められていた.遺体そのものは棺の下の地下に埋葬されているそうだ.
以上キプロス紀行2016/ラルナカのページから.
ラケル廟(Rachel's Tomb)に隣接するキブツ庭
実際にラケル廟に行ったのではなく,その北がラマトラケルのキブツとなっており,その眺めを載せた.てラケル(Rachel)とは旧約聖書に現れる女性で,ヤコブの奥さんだったそうだ.当時ヤコブには女奴隷の側室もいたが,ラケルは正妻でやがてヨセフ(この名は別にも多い)を生んだということだ.ラケル廟はイスラムにとっても聖地だが,イスラエルが高いコンクリート製セキュリティフェンス(分離壁)を築いている.
以上イスラエル紀行2015/ベツレヘムのページから.
ダビデ王の墓(tomb of King David)
ダビデ王(在位BC1011~BC971)の墓に至る小径の脇にこのダビデ王の像がある.ビデ王は今も圧倒的な支持を得ているようだ.玄室に入るとビロード布を架けられたダビデ王全長3mの石棺が据えてあった.石棺の前では黒い帽子,黒い服の正調ユダヤ教徒に加え,普通の服装のユダヤ人もきてお祈りしている.
以上イスラエル紀行2015/シオンの丘のページから.
イエスキリストの墓所(Jesus Christ's tomb)
ヴィアドロローサ(Via Dolorosa:苦難の道)の終わり,聖墳墓教会内に棺のある部屋があった.室内は狭く,同時に最大3人くらいが入れる.イエスはこのお花の下に埋葬された.ただ,イエスは三日後に復活したのでここから抜け出たのであろう.
以上イスラエル紀行2015/ヴィアドロローサのページから.
キドロン谷墓地(Kidron valley cemetery)
主の祈りの教会を出るとキドロンの谷(Kidron valley)の墓地が広がっていた.最後の審判の日,ここに神が立ち死者がよみがえる場所とされ,墓地が作られるようになったそうだ.写真手前はユダヤ人,奥の城壁側はアラブ人のエリアだそうだ.
以上イスラエル紀行2015/マダバのページから.
サハマのプレインカ墓(Sajama pre-Inca tomb)
サハマ国立公園に近づく頃,このような日干しレンガ製の大きな直方体が数カ所で見えた.日干しレンガは長い年月持つものですね.
以上ボリビア紀行2015/場所のページから.
アタカマ高地の直方体彩色墓a(rectangular colored tomb at the Atacama highland a)
アタカマ高地の直方体彩色墓b(rectangular colored tomb at the Atacama highland b)
アタカマ高地を進むと直方体墓所のある地に到着した.紀元前数世紀から紀元後数世紀,プレインカの墓所だということだ.近づいて眺めると,先程よりさらに大きなように見える.直方体という形状,入り口の形やその上の横向きの凹み模様などに共通性があろう.大きな違いは彩色された力強い文様だ.
以上ボリビア紀行2015/タフアへのページから.
チャルパス墓地(Chullpas cemetery)
ウユニ塩湖トゥヌパ火山中腹のチャルパス墓地洞窟に入った.洞窟は浅く入り口からある程度光が射し込む.そして数体のミイラが見える.エジプトのミイラのように処理され,布で覆われたのではなく,比較的自然のままに近いように見える.ナスカのミイラに近い.ミイラはここで成仏したものではなく,比較的最近他所から運び込まれたということだ.
以上ボリビア紀行2015/ウユニ経由ビリャマルのページから.
ユンガイ慰霊公園(Campo Santo Yungay)
背後に見えているのはワスカラン(Huascaran:6,768m)である.1970年の大地震(アンカシュ地震)で,ワスカラン北峰で巨大な地すべりが起き,氷河と共に崩落.膨大な氷塊と土砂が3,000mの高さから時速300kmで麓のユンガイの集落を襲ったそうだ.そして当時約18,000人の全人口の殆どが土砂の下になり亡くなったそうだ.Campo Santo Yungay はその下敷きになった旧集落上に築かれた慰霊地なのだそうだ.ペルー政府はこの地を国有化し,掘り返しを禁止し,旧市街から少し離れた場所に新しいユンガイの街を建設したという.
以上ブランカ山群トレック紀行2014/ケウシュのページから.
リガ自由記念碑(Riga Freedom Monument)
1918~1920年,ドイツからのラトビア独立戦争で戦った兵士を祀り,1935年に完成したそうだ.石灰岩で造られ,42mの高さだそうで,基部には『祖国と自由のために』と刻まれ,頂部にはラトビア3地域象徴の3つの星を掲げる女性像が立っている.
以上バルト海諸国紀行2014/リガのページから.
ショパンの心臓(Chopin's heart)
ワルシャワの聖十字架教会,ポーランドの偉人フレデリックショパン(Fryderyk Chopin:1810~1849年)の心臓がこの柱の下側,花束のある辺りに収めれているそうだ.パネルの下側に『Here rests the heart of Fryderick Chopin』と刻まれているのが見える.
以上バルト海諸国紀行2014/ワルシャワ(続)のページから.