このページでは既存ページから転載し,蘇公塔の墓所(中国),莫高窟の墓地(同),ゴビ灘の墓地(同),魏晋壁画墓(同),武威の文廟(同),雷台漢墓(同),李広墓(同),天水の文廟(同),秦始皇帝陵(同),フランシスコ修道院回廊の棺(クロアチア),ドブロヴニク戦没者記念室(同),ザグレブ聖母被昇天大聖堂の大司教ステピナッツの棺(同),クアラカンサーのスルタン墓所(マレーシア),モンゴルカザフ族の共同墓地(モンゴル),パンフィロフ戦士公園(カザフスタン),TEKTYPMAC廟(同),アイシャビビ廟(同),パフラワンマフムド廟(ウズベキスタン),トレベクハニム廟(トルクメニスタン),イルアルスラン廟(同),スルタンサンジャール廟(同),チャシュマアユブ廟(ウズベキスタン),シャハンギール廟(同),ウルベグ子孫廟(同),タシケントの日本人墓地(同),ギャンツェの慰霊碑(チベット),聖フリプスィメの棺(アルメニア),ハフバット修道院の墓地(同),虎丘(中国),夫子廟/孔子廟(同),明考陵(同),中山陵(同),梅里雪山遭難慰霊碑(同),セントカトリーナの棺(エジプト),パルミラ遺跡の墓(シリア),ペトラの王家墳墓群(ヨルダン),トクラのシェルパ慰霊碑(ネパール),ツェルマット教会の墓地(スイス)の写真を載せました.
蘇公塔の墓所(Sugong tombs)
蘇公塔のモスク脇に墓地があった.仰向けで右に向けた顔がメッカの方向を向くように埋葬されるため,お棺は皆同じ方向に並んでいる.お棺の断面形状はここでは桃形や卵形が多いようだ.墓地の先のブドウ畑と乾燥小屋というのがいかにもトルファンらしい眺めだ.
以上河西回廊を行く2011/トルファンのページから.
莫高窟の墓地(Mogaoku tombs)
壁画で有名な莫高窟エリアの一画には広い墓地がある.ここで修行し,亡くなられたお坊さんのお墓が集まっているようだ.ただ仏塔はチベット仏教のチョルテン様式が多いようだ.
以上河西回廊を行く2011/莫高窟と楡林窟のページから.
ゴビ灘の墓地(tombs in the Gobi Desert)
ゴビ灘の所々では写真のような盛土した墓地を見ることができた.なお墓地(埋葬場所)はウイグルや甘粛省の多くを占めるゴビ灘などの荒地(一般に国有地)のどこでも好きな場所を選んで埋葬することが可能だそうだ.
以上河西回廊を行く2011/莫高窟と楡林窟のページから.
魏晋壁画墓(Weijin Tomb)
酒泉近くのゴビ灘地下に眠る魏晋壁画墓は地下墓地となっている.魏晋時代とは後漢末期の黄巾の乱の頃から,三国志の時代を経て,隋が中国を再び統一する間の群雄割拠時代で,西暦184年-589年あたりになるようだ.小墓地そのものは1400室位あるそうで,その中の一つが公開されている.撮影禁止であるが,写真のようなここで出土した壁画の一部が甘粛省博物館で展示されていた.
以上河西回廊を行く2011/酒泉のページから.
武威の文廟(Confucius's Mausoleum in Wuwei)
孔子を祀る文廟はここ武威に限らず全国各地にあるそうだ.ここの文廟は明代1439年創建で,孔子廟だけでなく儒教を学ぶ儒学院,及び宝物庫というか博物館というか,そうした機能も備えているようだ.
以上河西回廊を行く2011/武威のページから.
雷台漢墓(Leitai Han tomb)
武威の道観(道教寺院)雷台にある後漢時代の張将軍一族の雷台漢墓.中から非常に価値ある埋葬品銅奔馬(馬超龍雀)が発見されたそうだ.本物は甘粛省博物館に展示され,中国国家旅遊局のシンボルとして採用されたり,また横浜三ッ池公園には中国遼寧省から友好の印として寄贈されたレプリカが置かれているそうだ.
以上河西回廊を行く2011/天水のページから.
李広墓(Liguang tomb)
前漢の将軍李広はここ天水の生まれで,武勇に優れ匈奴討伐に多大な功を挙げたそうだ.しかし後には敗れて捕虜となり,その後脱出して長安に戻るも罪を問われ平民に落とされる...などいろいろな人生だったようだ.李広は弓の名手でもあったそうだ.あるとき狩りに出かけ,虎に矢を放った.だがそれは虎ではなく大きな石で,矢は1/3ほどその石に刺さっていたそうだ.その後李広は幾度となくその石に矢を放ったが,全く刺さることはなかったそうだ.これは後世『石に立つ矢』として知られることになる.塚の前には「漢将軍李廣之墓 蒋中正 題(落款印)」と端正に記された蒋介石直筆の碑も建てれている.
以上河西回廊を行く2011/天水のページから.
天水の文廟(Confucius's Mausoleum in Tianshui)
こちらは天水の文廟(孔子廟).廟の付近一帯は大きなショッピング街となっている.
以上河西回廊を行く2011/天水のページから.
秦始皇帝陵(Qin Shi Huangdi's tomb)
兵馬傭博物館から秦始皇帝陵への専用バスで来るとこの緑の小山に出合う.これが秦始皇帝陵とされる山だそうだ.何の変哲もない山のようだが,史記などで記載された内容から多分始皇帝陵であろうとされるそうだ.
以上河西回廊を行く2011/西安(後半)のページから.
ランシスコ修道院回廊の棺(tombs at the Franciscan monastery corridor)
ドブロヴニクのフランシスコ修道院を見物したら,回廊上部に上流階級故人の棺などが設置されていた.こういうところにか~と驚いた.
以上バルカン紀行2011/ドブロヴニクのページから.
ドブロヴニク戦没者記念室(Dobrovnik war memorial)
ドブロヴニクは,1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争でセルビアとモンテネグロ勢力の砲撃により多大な損害を蒙った.スポンザ宮殿一画の戦没者メモリアルルームには戦死者の顔写真などが展示されていた.
以上バルカン紀行2011/ドブロヴニクのページから.
ザグレブ聖母被昇天大聖堂の大司教ステピナッツの棺(Stepinac's tomb in the Cathedral of the Assumption of the Blessed Virgin Mary in Zagreb)
ザグレブ聖母被昇天大聖堂主祭壇には第二次大戦当時大司教だったというステピナッツ氏の棺(実際の遺体は地下に収められているそうだ)があった.大司教ステピナッツ氏は大戦後のユーゴスラビア法廷で戦争犯罪人の判決が下り,強制労働が課され,後減刑で監禁の身となったそうだ.バチカンが同氏を枢機卿に任じるも,政府は激怒,本人は監禁下では何もできないまま1960年に他界したという.その後クロアチア独立政権誕生に伴って同氏の名誉が回復され,この大聖堂に埋葬されたということだ.
以上バルカン紀行2011/ザグレブのページから.
クアラカンサーのスルタン墓所(sultan tombs at Kuala Kangsar)
クアラカンサーのブディアモスク裏側はお墓になっていた.モスク本体と違ってここは今もスルタン一族専用だということだ.建造物はモスク本体と調和する統一的デザインがなされている.
以上マレーシア紀行2011/クアラカンサーのページから.
モンゴルカザフ族の共同墓地
モンゴル系の部族は墓を作らないがカザフ族は作るそうだ.大きな共同墓地の脇を通ったのでちょっと覗かせてもらった.大きな家族は日干し煉瓦で囲まれた大きな面積の墓地(写真左側),小さな家族は木で囲ったもの(同右側)が多いようだ.囲いの中には,個人こじんをメッカの方向に顔を向けて埋葬した盛り土が見られ,新しいものには墓碑が建てられていた.
以上モンゴルの旅2009/シベートハイルハン麓へのページから.
アルマトイのパンフィロフ戦士公園(Panfilov heroes park in Almaty)
第二次世界大戦時,カザフ共和国から出征しモスクワを防御したパンフィロフ将軍率いる28人の部隊を弔うために造られた公園だそうである.とても広く,大きな樹が繁っていた.
以上中央アジアの旅2007/アルマトイのページから.
タラス川古戦場跡のTEKTYPMAC廟(TEKTYPMAC at river Taraz)
タラス川を見下ろす丘の上には廟が建てられていた.入り口にはTEKTYPMACと記されているが,キリル文字のようなので読み方がよく判らないが,どうやらテクトルマスのようである.レンガ積みの模様がなかなかきれいだ.
以上中央アジアの旅2007/タラスのページから.
アイシャビビ廟(Tomb of Aisha Bibi)
商人の娘アイシャビビはカラハン朝王子と恋に落ちた.だが父親の反対で容易には会うことができなかった.不憫に思った母親が,乳母のババジカトゥを伴わせ,密かに家から送り出した.王子に会う前にタラス河で身を清め,河畔で身に付ける衣装を手繰り寄せたとき,不運にも毒蛇にかまれてしまった.王子は駆けつけ,アイシャを抱き上げた.そして息を引き取る前に急ぎ結婚式を挙げ,彼女のために立派な廟を造ることを誓った.それがこのアイシャビビ廟だという.また王子はイスラム法が複数の妻を娶ることを許容しているに拘わらず生涯独身を通したという.
以上中央アジアの旅2007/タラスのページから.
ヒワのパフラワンマフムド廟(Tomb of Pakhlavan Makhmud in Khiva)
この人はヒワ出身の屈強なレスラーにしてまた詩人でもあり,文武両道の英雄,聖者とされているという.廟があり,中で聖職者がいて,内容は判らないが何か唄うように述べてくれる.傍らにお金を入れる箱が用意されており,堂を退くときにいくらか入れてきた.
以上中央アジアの旅2007/ヒワのページから.
クフナウルゲンチのトレベクハニム廟(Turabek Khanym mausoleum in Kunya Urgench)
1370年に建立されたそうでかなり古い.クフナウルゲンチの遺跡の中で,最大で,また保存状態も良いようだ.このドームは12の倍数の窓で月を表し,また白線で365個に分割するなど,全体的に暦を表現しているという.クトルグティムールの夫人トレベクハニムの墓廟であるが,当初夫人が健在中,普通の迎賓館として建設され,夫人の没後廟に転用された,とガイドのアタジャンさんに聞いた.
以上中央アジアの旅2007/クフナウルゲンチのページから.
クフナウルゲンチのイルアルスラン廟(Il Arslan Mausoleum in Kunya Urgench)
1172年に建てられたホラズム朝スルタンテケシュの父親,イルアルスランの廟だそうである.12角形のトンガリ屋根のタイルのシアン成分が多い青がなかなかきれいだ. イルアルスラン(1156~72)はウルゲンチの治水工事を行い,ホラサン (イラン東部) を征服し,南の方に領地を拡大した人物のようだ.
以上中央アジアの旅2007/クフナウルゲンチのページから.
メルブ遺跡のスルタンサンジャール廟(Mausoleum of Sultan Sanjar at Merv)
12世紀に建造されたスルタン(イスラム王朝の君主)であったサンジャールの廟.サンジャールはセルジュク朝の最盛期を築いたそうである.スルタンカラ(Sultan Kalah)と呼ばれる区画の中央に位置し,高さは38mでとても大きく,砂漠では一際目立つのでキャラバンの道標になっていたそうである.堅牢な造りで,後のモンゴル軍の破壊や地震にも奇跡的に耐えたそうだ.しかしタイルの剥離等傷んだ部分は多く,トルコ政府の援助で修復が進められたそうで,傍らにはトルコとトルクメニスタン双方の国旗入り碑が立っていた.
以上中央アジアの旅2007/メルブ遺跡のページから.
ブハラのチャシュマアユブ廟(Mausoleum of Chashma Ayub in Bukhara)
マアユブはタジク語で旧約聖書にあるというヨブに相当し,チャシュマアユブで「ヨブの泉」という意味になるのだそうだ.何でも,日照りの年に,マアユブ(だからヨブ)が杖を地面に立てたら,ここから水が湧き出したという伝説の地だそうである.廟は14世紀のアムルティムールの時代に建立されたようである.泉は今も湧き,聖水として尊ばれているが,不慣れな我々は飲まぬが無難ということだった.
以上中央アジアの旅2007/ブハラのページから.
シャフリサブスのシャハンギール廟(Mausoleum of Cahangir in Shahrisabz)
シャフリサブスのドルサオダット建築郡(Dorussaodat memorial complexe)の一つにシャハンギール廟が含まれていた.ティムールが亡くなった息子のために建てた廟だという.
以上中央アジアの旅2007/シャフリサブスのページから.
シャフリサブスのウルベグ子孫廟(Ulugh Beg family tombs in Shahrisabz)
シャフリサブスのドルティロヴァット建築郡(Doruttilovat memorial complexe)の一つにウルベグ子孫廟が含まれていた.
以上中央アジアの旅2007/シャフリサブスのページから.
タシケントの日本人墓地(Japanese cemetery in Tashkent)
第2次世界大戦後,多数の日本兵捕虜がソ連各地で強制労働キャンプに収容された.ウズベキスタンにおいても約2万4千人が抑留され,各地で建設工事など携わったそうである.粗悪な労働環境,過酷な労働で命を落とした人も多く,ウズベキスタンだけでも812人が収容中に亡くなったそうだ.この中の79名がタシケントのこの墓地に埋葬されていた.墓銘を見ると亡くなられた人の出身地は日本各地に広がっている.他に,無念にも身元不明のまま落命した人は多数に上るようである.
以上中央アジアの旅2007/タシケントのページから.
ギャンツェの慰霊碑(Gyantse memorial monument)
ギャンツェは1903年,英領インド軍がチベットに侵入してきた時に戦場になったそうで,このとき多くの犠牲者が出たそうだ.写真丘の上は英領インド軍と戦火を交えたギャンツェ城だそうだ.また手前の広場には戦没者の慰霊碑が建てられ,公園になっていた.
以上チベットの旅2007/ギャンツェのページから.
エチミアジン聖フリプスィメの棺(coffin of St. Hripsime at the church in Echmiadzin)
3世紀後半,アルメニア国王の差し向けた追っ手に惨殺されてしまったフリプスィメという美しい尼僧がいたそうだ.後に,国王はキリスト教に改宗し,国教にしたのだという.またこの教会を建設し,地下墓地に聖フリプスィメを葬ったようである.階段で下りると,彼女の肖像が描かれ石製の棺が安置されていた.過去の遺骨調査から,聖フリプスィメは身長2mと大きな女性だったことが判ったそうだ.
以上コーカサスの旅2007/エチミアジンのページから.
ハフバット修道院の墓地(Cemetery at Monasteries of Haghpat)
10世紀中ごろから建造が始まったというハフバット修道院.そぼ庭の一画に墓地があった.当然墓石を踏んだりしてはいけないものと思っていたが,然に非ず,写真のように踏むのが供養になるのという.
以上コーカサスの旅2007/ハフバット修道院のページから.
バクーのキーロフ公園/殉教者の共同墓地(Kirov Park in Baku)
1992年以降のアルメニア戦戦没者,1990年ソ連軍のバクー侵攻に抵抗して命を落とした一般市民を含む墓,など区分けされて並んでいる.墓石には顔写真が刻まれているものもある.黒い石(花崗岩か?)の表面を境面状に磨き,そこにタガネを打ち,白くし,白点の密度で明るさをコントロールしてグラデーションを作り出している.なかなか見事な技だ.
以上コーカサスの旅2007/バクーのページから.
蘇州の虎丘(Tiger hill in Suzhou)
虎丘は2000年の歴史を持つ「呉名第一の名勝」と称されているそうだ.春秋戦国時代,ここに呉王の夫差(ふさ)が父親を葬った.その3日後,白い虎が現われ,墓の上にうずくまっていたと言われるのがその名の由来であるという.
以上江南の旅2007/蘇州のページから.
南京の夫子廟(孔子廟)(Confucios' Temple in Nanjing)
夫子廟は別名孔子廟で,孔子を祀っている廟であろうが,廟そのものはどこかにあった筈であるが見逃した(←ひどい).ただ南京で夫子廟というと秦淮河周辺から建康路周辺の地域も夫子廟と呼ばれているそうだ.南京有数の歓楽街でもあるようで,川辺には屋形船が浮かび,多くの店が軒を並べている.なお秦淮河は長江の支流だそうだ.
以上江南の旅2007/南京のページから.
南京の明考陵(Imperial tombs of the Ming in Nanjing)
「明考陵景区」の入り口看板は世界遺産マーク入りの立派な石造り.明太祖朱元璋の陵墓は,樹木で覆われた周囲約1,100mもあるという円形の山であるそうだ.墓石や建物がないので,埋葬位置をピンポイントで特定することはできていないそうである.もちろん現代の技術で調べれば判るのであろうが,こう云った遺産が数多い中国では,今のところそ~っとしておくのがいいと判断しているのであろう.
以上江南の旅2007/南京のページから.
南京の中山陵(Dr. Sun Yat-sen's Mausoleum in Nanjing)
辛亥革命の指導者,中国国民党旧党首孫文(字は中山)先生(1866-1925年)の陵墓が中山陵.頂上の墓室に至る登り口にこのアーチが立っている.日本語でも併記された案内板によれば,1926年~1929年に建設され,ここから墓室まで392段の階段,2000ム(面積の単位?)の敷地は,民衆を起こして国家と人民を救うことに身を投じた精神を象徴し警鐘(アラームベル)型となっているそうだ.なお階段の段数392という数字は,1925年当時の中国総人口3億9千2百万人に由来するそうである,
以上江南の旅2007/南京のページから.
徳欽の梅里雪山遭難慰霊碑(Meili Xueshan climbers memorial monument)
飛来寺の展望台の一画に京大/中国登山協会隊の遭難慰霊碑が建てられている.残念ながら日本でも報道されている通り,無残にも日本人遭難者名が削り取られている.聖山を汚されたので怒った地元仏教徒,反日活動家,の2説あるようであるが,ガイド馬さんは,上海辺りから来た行き過ぎた反日家であろうと慰めてくれていたが,どちらにしても残念なことだ.
以上雲南省の旅2007/徳欽のページから.
シナイ半島のセントカトリーナ修道院(St. Catherine monastery in Sinai)
見学させてもらったセントカトリーナ修道院礼拝堂はこぢんまりした印象で,脇にはミイラ化したセントカトリーナの片手が掲げられていた.他の遺骨は修道院内の豪華な石棺に保管されているようだ.片手だけ壁に在ったことに対して,個人的にはいささか違和感というか,作為的というか.....を感じてしまった.
以上中東の旅2006/シナイ半島のページから.
パルミラ遺跡の墓(Tombs in Palmyra)
パルミラ遺跡の中で「エラベール家の塔墓」と「三兄弟の地下墓室」から訪れることになった.エラベール家の塔墓は5階建ての大きな墓だ.内部の各階の部屋の壁には棺を収納する凹みが多く設けられている.内部の石の彫刻はなかなか豪勢な造りで,いちじく葉のデザインは古代ローマ様式と共通のように思えた.当時156の石棺が収められていたそうである.一方,三兄弟の地下墓室は富豪の三兄弟(とその他大勢)が埋葬された地下墳墓.パルミラの人口が増えると,必要な墓地も多くなる.三兄弟は地下の分譲墓地を企画し,大当たりし,その結果富豪になったそうな.
以上中東の旅2006/パルミラのページから.
ペトラの王家墳墓群(Cemetery in Petra)
エルカズネから先の右手の山の斜面には数多くの岩を切り出した建造物が見える.様式はエルカズネと似ているのでナバテア人が造ったものであろう.王家の墳墓群と呼ばれるそうだ.
以上中東の旅2006/ペトラのページから.
トクラのシェルパ慰霊碑(Sherpa memorial chortens at Tukla)
トクラでは山の事故で命を落としたシェルパの慰霊碑に至る.登り行程でも通ったところだ.沢山のケルンとチョルテンが築かれ,タルチョーが風に舞う.アマダブラムが見守っているようだ.
以上エベレスト街道トレッキング2005/チュクンリへのページから.
ツェルマット教会の墓地(Tomb at the Zermatt church)
ツェルマット教会の一画に墓地があり,アルプスで遭難した登山家の墓が多く建てられている.
以上アルプスハイキング2005/ツェルマットのページから.