このページでは,既存ページから転載し,プリズレン丘の城壁(コソボ),スコピエ城砦(マケドニア),ベラート城(アルバニア),クルヤ城址(同),大河故城(中国新疆ウイグル),北庭都護府(同),恵遠故城(同),ツァラベツの丘(ブルガリア),ペレシュ城(ルーマニア),ペリショール城(同),ブラン城(同),ルーパの要塞(同),ザンラ王宮(インド/ザンスカール),レーの旧王宮(インド/ラダック),ガジアンテップ城塞(トルコ),シャンルウルファ城(同),カイセリ城(同),ハットゥシャ遺跡(同),華城(韓国),フエのグエン(阮)朝王宮(ベトナム),マンダレー王宮(ミャンマー),敦煌の陽関(中国),敦煌の漢長城(同),敦煌の玉門関(同),瓜州の鎖陽城(同),嘉峪関(同),ブレッド城(スロベニア),ディオクレティアヌス宮殿(クロアチア),スポンザ宮殿(同),ジョージタウンのコーンウォリス要塞跡(マレーシア),サンチャゴ砦(同),ボグドハーン宮殿(モンゴル)の写真を載せました.
プリズレン(Prizren)丘の城壁
プリズレンの丘の上には石を積み上げた城壁が見えていた.何でもローマ帝国時代のものらしい.
以上南バルカン紀行2013/プリズレンのページから.
スコピエ城砦(Skopsko Kale)
スコピエ城砦跡はバルダル川(Vardar river)を見下ろす北岸丘の上にあるが,11世紀ビザンチン帝国若しくは第一次ブルガリア帝国の築城とされるようだ.スコピエは大地震が定期的に襲うそうで,これまで幾度となく大きく破壊されていたようだ.ただ近年,観光資源として見直され,修復作業が行われ,今はその途中のようだ.
以上南バルカン紀行2013/スコピエのページから.
ベラート城(the castle of Berat)
ベラート城,写真はその本丸跡,の基礎は紀元前4世紀,アルバニア人の祖先とされるイリリア人によって築かれたと見られるという.しかし現形態の基礎の多くは13世紀に築かれたようだ.内部に42もの教会があったが,大半はビザンチン時代,13世紀の建立であるそうだ.そして15世紀初頭から始まるオスマン帝国支配の時代からは,教会に代わってモスクの建設が行われたようだ.
以上南バルカン紀行2013/ベラートのページから.
クルヤ城址(Kruja Castle)
クルヤ城は中世の1190年,アルバニアで最初に自治権を得たアルバノン公国,後にアルバニア王国になったときの都が置かれたところだそうだ.15世紀初めオスマン帝国の侵攻があるが,スカンデルベグが1443年から亡くなる1468年までの間,3度に渡りオスマン軍と対峙し侵略から守ったという.つまりクルヤ城がスカンデルベグの本拠地で,中世アルバニアの中心だった訳だ.
以上南バルカン紀行2013/クルヤのページから.
大河故城(Ancient City of Dahe Gucheng)
大河故城は唐代の屯田兵のための要塞址で,大河鎮という村にあるため大河故城の名となっているそうだ.現在は版築工法で築かれた周囲180m×210m,高さが10mあったという四角い城壁だけが残こされている.
以上天山北路を行く2013/パリコン(巴里坤)のページから.
北庭都護府(Protectorate General to Pacify Beiting)
北庭大都護府は唐代,西突厥(中央アジアを支配した民族)と対峙するためにここに設置された行政機関で,管轄範囲は,東は2日前訪れたハミ,西はアラル海(現在はウズベキスタン領),北はエルティシ川からバルハシ湖,南は天山山脈まで,と随分広かったようだ.現在は版築でできた城壁が残されている.
以上天山北路を行く2013/ジムサル(吉木薩爾)のページから.
恵遠故城(Huiyuan ancient city)
恵遠故城は清代に,イリ(伊犁)地方に建設された複数の城の中の1つだそうだ.故城で残されたものは少なく,その代表がこの写真の,頑丈そうな土塁の上に築かれた三層鐘鼓楼だそうだ.当初1763年,清の乾隆帝の時代イリ河畔に建てられたが,水害に遭いこの場所に再建されたそうだ.鐘鼓楼に上ると漢様式の屋根や,木製の芯を漆喰で固めた柱など興味深い.
以上天山北路を行く2013/イーニン(伊寧)のページから.
ツァラベツの丘(Tsarevets hill)
ベリコタルノボは現在人口8万人くらいの街であるが,第二次ブルガリア帝国(前ページの歴史年表参照)の首都で,政治,経済,文化,宗教(ブルガリア正教)の中心であったそうだ.第二次ブルガリア帝国は東ローマ帝国から再び奪い返して成立させた国家で,近隣バルカン正教圏で重要な位置を占め,第3のローマともされたそうだ.
そのベリコタルノボにはツァラベツの丘(Tsarevets hill)と呼ばれる要塞があって,かつてのブルガリア皇族や総主教の住まいがあったそうである.
以上東欧紀行2013/ベリコタルノボのページから.
ペレシュ城(Peles Castle)
ルーマニア王国最初の皇帝カロル一世(Carol I 1866~1914)夏の離宮として8年の歳月を費やし,1875年に完成したそうだ.ゴシック,ルネッサンス,バロック,ロココの各様式のミックスだそうである.つまり何でも有りと云うことか.でもそれがちゃんと調和しているように思える.
以上東欧紀行2013/シナイアのページから.
ペリショール城(Pelisor Castle)
ルーマニア王国の最初の皇帝カロル一世(Carol I 1866~1914)が,後継者である甥のフェルディナンド一世とマリア王妃,そうあのブラン城で登場したお妃様のために建造したということだ.カロル一世は必ずしもフェルディナンド一世と上手くいっていた訳ではなく,本人の居城,下記ペレシュ城で一緒に住まうのが嫌だったのでわざわざ別のお城を創ったのが真相,とのガイドAさんの解説があった.
以上東欧紀行2013/シナイアのページから.
ブラン城(Bran Castle)
14世紀当時,オスマン軍の襲来から守るため,時の支配者ワラキア公国ブラド一世(=ドラキュラ伯爵の祖父)の居城として1377年建設されたそうで,相当古い.日本では室町時代であるからやはり戦闘の多かった時代であることは興味深い.ドラキュラ伯爵(ブラド3世)自身は戦争のためとかでブラン城を訪れたことはあったが,居住したことはなかったそうだ.ここがドラキュラ公の居城となっているのはあくまで例の小説の上でのことだそうだ.
以上東欧紀行2013/ブランのページから.
ルーパの要塞(Cetatea Rupea)
ビエルタンとブラショフのちょうど中間くらいの場所,ルーパ(Rupea)の街の丘に建てられていた.教会ではなく,いかにも頑丈な山城そのものといった様相だ.
以上東欧紀行2013/ビエルタンのページから.
(新)ザンラ王宮(Zangla Khar)
(旧)ザンラ王宮(Zangla Khar)
近年国境不確定でありながらも実効支配するインド政府の支配下にあるが,かつてグゲ王国やヒンドゥーとのせめぎ合いなど色々ありながら,パドゥム王家などと共にザンスカールを統治してきたのがザンラ王家だそうだ.上は新しい建物,下は古い方であるが,何れも最上階には立派な仏間が設けられ,お寺(ゴンパ)とあまり違いがないように見える.かつてバクラリンポチェやンガリリンポチェと云った高僧がこの王家の出身だそうで,大変な誉れだということだ.
旧王宮は上で見せて貰った建物より相当古く,傷みが激しいため,それが転居の理由だったそうだ.放置すれば崩壊寸前と云う状態になっていたのだが,19世紀前半,ハンガリーのアレクサンダーというチベット学者が1年程この旧ザンラ王宮に滞在し,いろいろ研究し,チベット語文献の翻訳や世界最初の辞書編纂を行ったそうだ.
以上ザンスカールを歩く2012/パドゥムへのページから.
レー(Leh)の旧王宮
インドヒマラヤの都市レー(Leh)は19世紀までは独立国家,後インドの領土となったラダック地方最大の街で,人口は3~4万人くらいだそうだ.街の北東に茶色い岩山があり,中腹にかつてのレー王宮(現在は廃墟)が残っている.写真上の赤い建物はゴンパ(Namgyal Tsemo Gompa)で,その背後白い建物は砦だそうだ.紅白合わせて,チベット仏教の都市でしばしば見られる政教一体の機関であったのであろう.
以上ザンスカールを歩く2012/レーへのページから.
ガジアンテップ城塞(Gaziantep Citadel)
写真は,6世紀ビザンツ帝国(東ローマ帝国)ユスティニアヌス一世により建設されたというガジアンテップ城塞(Gaziantep Citadel)の城壁.当初の外敵はどこだったのであろうか?近くにはササン朝ペルシアなど,覇権を狙う勢力は幾らでもあったのであろう.建設後歴代支配者によって増改築され,増強されたそうだ.
以上トルコ紀行2012/ガジアンテップのページから.
シャンルウルファ城(Sanliurfa castle)
写真の高い城壁自体は9世紀にアッバース朝が建てたものだそうだ.つまりその頃ここはビザンツ帝国の支配が及んでいなかったのであろう.ところがこの城壁の上に登り,巨大な二本の円柱を眺めて見ると,コリント式でかなり古そうだ.どうやら紀元前2世紀から紀元後3世紀頃,古代ローマ帝国時代のものらしい.
以上トルコ紀行2012/シャンルウルファのページから.
カイセリ城(Kayseri castle)
カイセリ(Kayseri)の名は,ローマ帝国のカイザルと関係があるそうで,街自体はその頃からすでにあるそうだ.そして街の真ん中にあるこの城壁は6世紀にビザンツ帝国のユスティニアヌス一世,あのガジアンテップ城塞を築いた人物,が建設したそうだ.ガジアンテップとカイセリどころか,ビザンツ帝国の版図は広大で,まあ,驚くに当たらないであろう.そして,その後幾度かの改修を経て,現在に至っているようだ.
以上トルコ紀行2012/カイセリのページから.
ハットゥシャ遺跡(Hattusha: the Hittite Capital)の復元された城壁
ここは古代エジプト,バビロニアと共に古代オリエントの3大国の一つ,ハットゥシャ(またはハットゥシャシュ)帝国の都のあった遺跡.ハットゥシャシュ遺跡は大変広く,写真手前は礎石が並ぶ大神殿跡,先方は最近ドイツ政府の援助で復元されたという城壁.1986年ユネスコ文化遺産に登録.
以上トルコ紀行2012/ボアズカレのページから.
華城(Hwaseong Fortress)
写真は華城の東の建物窓から西を眺めた様子.華城は朝鮮王朝第22代国王正祖が,陰謀により倒れた父親の墓を設け,またそれを守るためにこの蒼龍門のような城門,城壁や塔,楼閣を1794~1796年に築いたそうだ.墓を守るためにしてはあまりに堅固な構造物で固められ,まあ実質的にお城だそうだ.建設には延べ37万人という膨大な労力が投入されたそうだ.
以上韓国の旅2012/水原(スウォン)のページから.
フエ(Hue)のグエン(阮)朝王宮
ベトナム最後の王朝がグエン(阮)朝で,フエに王宮が残っている.写真の太和殿は北京の紫禁城をお手本にしたそうだ.しかしサイズはかなり小さいと思う.
以上ベトナム紀行2012/フエのページから.
マンダレー王宮(Mandalay Palace)
この宮殿は,コンバウン朝(Konbaung Dynasty)のミンドン王が,2度の対英戦争敗戦ですさんだ人心一新を図るため,そして西暦1856年「仏暦2400年」の祝いを兼ね,新都建設を計画し1858年に完成したものだそうだ.そして1885年まで宮殿として機能したが,同年のコンバウン朝滅亡以後は英軍の駐屯地に使われ,また大戦中は日本軍が駐留したため,大戦末期の1945年連合国軍と日本軍の戦闘で焼失してしまったそうである.この写真の建物は再建されたレプリカである.
以上ミャンマー紀行2011/マンダレーのページから.
敦煌の陽関(Yangguan Pass)
陽関は2200年前,漢の武帝によって造られた西域南道へと続く関所だそうだ.この入口門を含めて殆どレプリカで本物は烽火台程度だ.陽関の名は下の玉門関の南(陽)にあることから名付けられたそうだ.
以上河西回廊を行く2011/敦煌のページから.
敦煌の漢長城(YHan Chang Cheng)
万里の長城は秦の時代から築城が始まったそうだが,ここは少し後の漢代に築かれたそうである.芦と土とを交互に重ね合わせながら突き固めた版築工法で造られたようだ.写真のようにかなり風化しながらもその層構造がよく見える.
以上河西回廊を行く2011/敦煌のページから.
敦煌の玉門関(Yumen Pass)
上の陽関が西域南道へと続く関所であったのに対し,こちら玉門関は天山南路へ通ずる関門であったそうだ.陽関と同じ頃やはり版築工法で築かれ,シルクロードの交易品取引の場であったようだ.現在も残る大きな四角い城壁の内側(立ち入り禁止)の一部は,ここを守る2000人もの屯田兵の食物倉庫に充てられていたそうだ.
以上河西回廊を行く2011/敦煌のページから.
瓜州の鎖陽城(Suoyang city ruins)
唐代からの重要な遺跡,版築工法の層状の外観が見える.唐の中央政府が,もし三蔵法師が通りかかったら引っ捕らえるようお触れを出しており,果たして法師はここにやって来たそうである.ここの城主は随分と悩んだが,法師の目の前でその手配書を真っ二つに破き,どうぞ安心してインドに行って下され,と励ましたそうな.感動的な話だ.
以上河西回廊を行く2011/瓜州のページから.
嘉峪関(Jiayuguan)
嘉峪関は南が祁連山脈,北が天山山脈の支脈(嘉峪山?黒山?)に挟まれた谷の中央部,少し高台に築かれた砦若しくは関所だったそうだ.河西回廊が最も狭い谷を通る場所で,砦を築くには格好の場所であったようだ.上述の陽関や玉門関よりかなり後世,明代に築かれたようであるが,非常に堅固な造りのようだ.ここはまた東端の遼寧省虎山から,西端のここ嘉峪関まで総延長は8,851.8km,万里の長城(明代)としてユネスコ世界遺産に登録されているそうである.
以上河西回廊を行く2011/嘉峪関のページから.
スロベニアのブレッド城(Bled Castle in Slovenia)
ブレッド城は11世紀にイツ皇帝ハインリヒ2世という人が築き,ブリクセンの司教に進呈したものだそうだ.丘に立つ山城で,ヨーロッパの城の常として周囲は堅固な城壁で囲まれている.そして写真のゲートが設けられている.ゲート上部には敵が攻め入って来たときに防戦できるように兵を配するスペースと銃眼が設けられている.城を進呈したハインリヒ2世も太っ腹であるが,司教が皇帝に匹敵するような権力を有していたことにはもっと驚く他ない.
以上バルカンの旅2011/ブレッドのページから.
スプリットのディオクレティアヌス宮殿(Palace of Diocletian, Split)
紀元前の昔からダルマチア人が定住し,ギリシャの植民地や共和政ローマの属州となった経緯があるよ云うスプリット.時代が下り紀元4世紀ローマ帝国時代,皇帝ディオクレティアヌスは20年ほど在位した後健康を害し,自ら皇帝の地位から退くことを宣言し,ここスプリットに隠居用宮殿を建てたのが今日のスプリットの始まりとなっているそうである.宮殿は,土木や建築に長けたローマ帝国譲りの宮殿らしく石造りの立派なものだ.ただ巨大な建築なので,内側の部屋には窓がなく,いささか息苦しい.
以上バルカンの旅2011/スプリットのページから.
ドブロヴニクのスポンザ宮殿(Sponza Palace, Dobrovnik)
アーチ型の回廊がスポンザ宮殿入り口.ゴシック様式とルネサンス様式ミックスで1516年ドゥブロブニク共和国の税関や造幣局として建設され,途中用途を変えながら,現在は古文書館および市中戦死者のメモリアルルームなどとして用いられているそうだ.多くが倒壊した1667年の大地震でも大丈夫だったそうで,建築遺跡として貴重だそうだ.でも宮殿と言うからには共和国元首の居城でもあったのか?は不明だ.
以上バルカンの旅2011/ドブロヴニクのページから.
ジョージタウンのコーンウォリス要塞跡(Fort Cornwallis in Georgetown, Penang)
ペナン島ジョージタウンは,当時の大英帝国がマレーシア植民地支配の拠点として開発を始め,その中心地を君主ジョージ4世に因みジョージタウンと名付けたのがここの始まりという.覇権を維持するためには強固な守りが必要,築かれたのが写真の砲台や弾薬庫など備え,周囲を堅固な城壁で囲った要塞,このコーンウォリス要塞が築かれたそうだ.
以上マレーシア紀行2011/ペナン島のページから.
マラッカのサンチャゴ砦(Porta de Santiago/Famosa fortress)
セントポールの丘に,ポルトガルによって建造された要塞がサンチャゴ砦だそうだ.当時,丘に置かれた司令部はマラッカ海峡から攻め入る外敵を防御するため,周りにぐるりと城壁を築き,4ヶ所のゲートを設け,その1つが写真のものだという.
以上マレーシア紀行2011/マラッカのページから.
ウランバートルのボグドハーン宮殿(Bogdohaan Palace)
ボグドハーン宮殿(Bogdohaan Palace)は1893年-1903年間の上述第8代活仏ボグドハーン冬の宮殿として建立され,1924年同活仏が死去した後,博物館に転用されるようになったということだ.複数の建物から成り.例えば仏像やタンカ,家具,活仏とお妃の服(80頭の狐皮で作られたデールなど),現在絶滅危惧種ユキヒョウ毛皮80枚から成るゲル,動物の剥製(活仏の趣味だったとか).....等々展示されている.
以上モンゴルの旅2009/ウランバートルのページから.