宮殿,城,砦など(4)

このページでは,既存ページから転載し,シバの女王宮殿(エチオピア),ヤハ宮殿跡(同),ファシリデス城(同),昔のマハラジャの館(バングラデシュ),サンジャンピエドポー砦跡(フランス),ベニハンマード(アルジェリア),ランバエシス司令部(同),ムスタファパシャ宮殿(同),ビブロスの十字軍砦(レバノン),ベイトエッディーンの館(同),サイダ海の城塞(同),瀋陽故宮(中国),東鶏冠山ロシア軍堡塁(同),宇和島城(愛媛県),大洲城(同),鳳凰古城(中国),南方長城(同),旧ムスタン王宮(ネパール),アラム宮殿(オマーン),ミラニフォート(同),ニズワ要塞(同),アルバリード遺跡(同),ホールルーリ遺跡(同),タシチョゾン(ブータン),ジャカルゾン(同),トンサゾン(同),プナカゾン(同),パロゾン(同),キレニア城(北キプロストルコ共和国),ニコシア城壁(キプロス),コロッシ城(同),パフォス城(同),エルサレム旧市街城壁(イスラエル),タリン城壁(エストニア),リガ城壁(ラトビア),ルンダーレ宮殿(ラトビア),ゲディミナス城(リトアニア),トラカイ城(同),ヴィラヌフ宮殿(ポーランド)の写真を載せました.

シバの女王宮殿(エチオピア)

シバの女王宮殿(エチオピア)

シバの女王宮殿(エチオピア)

アクスムでシバの女王宮殿とされる広い石積み構造物見物に行った.石積み壁の下部はかなり整然としており,上部はあまり丁寧ではなく修復されたように見える.また内側には廊下の跡であろうか,きれいに敷石が貼られている.こうした壁などの構造物は5世紀頃の地層の下に,5層の石積みの痕跡があるという,しかしシバの女王はおよそ紀元前1000年ころの人物なので,1500年も離れているので,やはり伝説の域を出ないのかな~ということだ.

以上エチオピア紀行2020/アクスムのページから.

ヤハ宮殿跡(エチオピア)

ヤハ宮殿跡(エチオピア)

ヤハ宮殿跡(エチオピア)

アクスムのヤハ神殿から少し離れてヤハ宮殿跡があった.かなり大きな規模だ.現在発掘調査を継続中ということだ.この先いろいろ判ってくるであろう,楽しみだ.

以上エチオピア紀行2020/アクスムのページから.

ファシリデス城(エチオピア)

ファシリデス城(エチオピア)

ファシリデス城(エチオピア)

ファシリデス城(ファジル・ゲビ)は17~18世紀,ここを首都としていたゴンダール朝(ソロモン朝の一つ)の歴代皇帝が城や正教聖堂,さらに書庫,サウナ,宴会場,動物の檻などを建造したところだ.

以上エチオピア紀行2020/ゴンダールのページから.

昔のマハラジャの館(バングラデシュ)

昔のマハラジャの館(バングラデシュ)

昔のマハラジャの館(バングラデシュ)

プティアの村を訪ねると,昔のマハラジャのお城があった.随分大きな館だ.現在マハラジャの地位はなくなり,館は公的機関の所有になり,活用されているとのことだ.

以上バングラデシュ紀行2019/プティアのページから.

サンジャンピエドポー砦跡(フランス)

サンジャンピエドポー砦跡(フランス)

サンジャンピエドポー砦跡(フランス)

サンジャンピエドポー巡礼事務所で手続きを済ませ,街を歩いてみた.丘の上にはサンジャンピエドポー砦(シタデル)の立派な城壁やお堀が残されていた.サンジャンピエドポー当バスク地方を支配していたナバラ王国がスペイン側からピレネー山脈を越える道を監視するため12世紀終わり頃(日本では鎌倉時代か)築いた軍事戦略都市だったということだ.

以上フランス人のカミーノ紀行2019/巡礼始点サンジャンピエドポーへのページから.

マンシージャの城壁(スペイン)

マンシージャの城壁(スペイン)

マンシージャの城壁(スペイン)

巡礼18日目マンシージャ(Mansilla)に到着した.一旦アルベルゲに落ち着き,後でマンシージャの街を歩いてみた.街のあちこちに堅固な城壁の一部が残されている.この写真は両側に壁があるので城門だったようだ.12世紀,ここマンシージャは明日訪れるレオン王国の領地だったそうで,当時のフェルナンド2世が城を築いたようだ.城壁の大きいところは高さ14m,厚さ3mとかなり巨大なものだったようだ.

以上フランス人のカミーノ紀行2019/巡礼18日目:マンシージャへのページから.

ベニハンマードの城塞(アルジェリア)

ベニハンマードの城塞(Al Qal'a of Beni Hammad)

ベニハンマードの城塞(Al Qal'a of Beni Hammad)

ベニハマッド(ハマッド朝)は,11世紀北アフリカの強大なイスマーイール派ファティマ朝(909年~1171年)に唯一楯突き,ここにアラブ世界の隊商交易中心とする首都として打ち立てたスンニ派王朝だそうだ.本城塞は,アルジェの建市者の息子ハンマードイブンブルッギン (Hammad ibn Buluggin) が建造計画を立て1007年に建造したそうだ.写真は,標識で湖の宮殿(Palace of lake)と記されている.多分50mプールより大きい.スイミングプールだったのか,用水池兼用だったのかよくわからない.先に見える石積み壁は城壁の一部で,全長7kmに渡る長大な城壁で囲まれていたようだ.

以上アルジェリア紀行2018/ベニハマッド遺跡のページから.

ランバエシスローマ軍総司令部跡(アルジェリア)

ランバエシスローマ軍総司令部跡(アルジェリア)

ランバエシスローマ軍総司令部跡(アルジェリア)

ティムガッドの街より以前の43BC頃に造られ,アフリカで唯一軍団を抱える総司令部をが駐屯していた砦だったようだ.

以上アルジェリア紀行2018/バトナのページから.

ムスタファパシャ宮殿(アルジェリア)

ムスタファパシャ宮殿(アルジェリア)

ムスタファパシャ宮殿(アルジェリア)

アルジェのカスバにある宮殿.1799年築のムスタファパシャ宮殿(1799年~).今は博物館になっている.ムスタファパシャという名の方はオスマン帝国で何人か居られるようだが,この場合のダルムスタファパチャ(Dar Mustapha Pacha)のことを指すのであろうか.

以上アルジェリア紀行2018/アルジェ(後)のページから.

ビブロスの十字軍砦(レバノン)

ビブロスの十字軍砦(レバノン)

ビブロスの十字軍砦(レバノン)

イスラム軍と十字軍の間で幾度もの奪い合いがあった砦.支配された期間はイスラム側が長いようだ.

以上レバノン紀行2018/ビブロスのページから.

ベイトエッディーンの館(レバノン)

ベイトエッディーンの館(レバノン)

ベイトエッディーンの館(レバノン)

ベイトエッディーンの館は,1788年,当時レバノンも支配下に置いたオスマントルコから,レバノン首長国首長として任命されたエミールバシール2世(Emir Bashir II)が建設を始め,30年余り費やして完成したそうである.建設に当たっては,レバノン国内のみならず,イタリアの建築家も招かれ競い合っという.その結果アラブ様式とイタリアバロック様式融合デザインにまとまったという.

以上レバノン紀行2018/シューフ山地のページから.

サイダ海の城塞(レバノン)

サイダ海の城塞(レバノン)

サイダ海の城塞(レバノン)

十字軍がこの地を奪い返したとき,イスラム軍サラディン(Saladin)将軍は既にエルサレム征服を果たしており,十字軍の次の行動を城塞建設と読んでおり,元にあった陸上の城を破壊しておいたそうだ.そこで十寿軍はやむなく,海上の神殿跡に築くことになったそうだ.

以上レバノン紀行2018/サイダ(またはシドン)のページから.

瀋陽故宮(中国)

瀋陽故宮崇政殿宝座(玉座)(中国)

瀋陽故宮崇政殿宝座(玉座)(中国)

瀋陽の清王朝皇宮の一つ瀋陽故宮は1625年建国された後金の初代皇帝ヌルハチと,2代目皇帝(清の初代皇帝でもある)ホンタイジの皇居で,清朝成立で北京に移った後も引き続き離宮として用いられたそうである.

以上中国東北紀行2018/瀋陽のページから.

東鶏冠山ロシア軍堡塁(中国)

瀋東鶏冠山ロシア軍堡塁(中国)

東鶏冠山ロシア軍堡塁(中国)

堡塁は帝政ロシアが旅順を1898年租借した後,1900年に旅順の東側の半永久的な防御線として建設したという.1904年8月,日本軍第11師団(四国兵団)による堡塁の攻略が始り,鉄条網は突破するも近接攻撃により大損害を受けたそうだ.その後坑道を掘り,堡塁爆破を試み,また上述の28サンチ(cm)榴弾砲を放ち,さらに堡塁正面のダイナマイト爆破で,日本軍が堡塁を占領したそうだ.ただし約8,000人もの戦死者を出したということだ.堡塁外壁には日本軍による無数の砲弾跡や爆破で崩れた跡が残されている.

以上中国東北紀行2018/旅順のページから.

宇和島城

宇和島城(愛媛県)

宇和島城(愛媛県)

宇和島市の住宅街を抜けると商業地区に入り,そこから小高い山,城山が見えた.そしてその上には宇和島城が築かれている.城山は平地に独立峰形態で突き出ており,宇和島城は典型的山城で防御には強そうだ.下が囲まれて兵糧攻めのリスクも高かったかも知れない.

以上半四国遍路2018/遍路3日目のページから.

大洲城

大洲城(愛媛県)

大洲城(愛媛県)

昿川(ひじかわ)の橋(昿川橋)から大洲城が見える.大洲城は鎌倉時代末期,伊予国守護宇都宮豊房の築いた城に始まるという.

以上半四国遍路2018/遍路4日目のページから.

鳳凰古城(中国)

鳳凰古城の阜城門(中国)

鳳凰古城の阜城門(中国)

鳳凰古城には複数の城門が設けられ,この阜城門は西の門で,鳳凰広場(別名従文広場,文化広場)に面している.昔はここが市街(城)への西の入り口で,2層目,3層目には回廊が巡らせてあり,監視できる造りになっている.

以上湖南省紀行2017/鳳凰古城のページから.

南方長城(中国)

南方長城(中国)

南方長城(中国)

あいにくの雨模様だが長い階段の長城に上った.この南方長城であるが,明代になり間もなく,漢族中央政府は各地に派兵し,この辺り西南地方の少数民族も一応平定した.ただ反政府的敵対者もかなりいたわけで,1554年,ミャオ(苗)族の中で朝廷統治に服従する人たち,従わない人たちに区別し,非服状側と,服従ミャオ族を含む漢族の居住区を物理的に分離すべく,ここ湖南省西部山地に長城を建設し始め,明代1623年に完成させたということだ.

以上湖南省紀行2017/南方長城のページから.

旧ムスタン王宮(ネパール)

旧ムスタン王国の王宮(ネパール/ローマンタン)

旧ムスタン王国の王宮(ネパール/ローマンタン)

ローマンタンにある旧ムスタン王国の王宮広場はティジ祭に集まった人でいっぱいだ.ムスタン王国は2008年まではネパールで唯一自治権が与えられていた.現在は州の扱い.チベット仏教の色あいが非常に濃い.

以上ムスタン紀行2017/ローマンタンの街のページから.

アラム宮殿(オマーン)

マスカット(Muscat)のアラム宮殿(Al Alam Palace)

マスカット(Muscat)のアラム宮殿(Al Alam Palace)

アラム宮殿は現スルタンカブース国王(Sultan Qaboos)の有する6つの王宮の一つであるそうだ.アラム(Al Alam)は『旗』の意味であるそうだから,主宮殿ということになろうか.宮殿の歴史は200年余り前,現国王から7代前のスルタン(Imam Sultan bin Ahmed)の時代に遡るという.

以上オマーン縦断2016/マスカットの街のページから.

ミラニフォート(オマーン)

マスカット(Muscat)のミラニフォート(Al Mirani fort)

マスカットのミラニフォート(Al Mirani fort)

オマーン人によって造られた砦であったが,1552年オスマン帝国スレイマン1世に派遣されたピーリーレイース提督(Ahmet Muhiddin Piri)によって,ポルトガル進出牽制のためガリオン船,ガレー船,850人の兵で攻め,この砦は破壊され,マスカット全部が占領されたようだ.そしてその後侵攻してきたポルトガル軍により,現在の形に再建され,その後1610年まで幾度か増改築されたそうだ.

以上オマーン縦断2016/マスカットの街のページから.

ニズワ要塞(オマーン)

ニズワ要塞(Nizwa Fort)

ニズワ要塞(Nizwa Fort)

砦は1668年アルヤルービ朝(Sultan Bin Saif Al Yarubi)時代に同地方の防衛を目的として建てられたそうで,スルタンの住居が置かれ,城として機能したということだ.

スルタンビンサイフ(Sultan Bin Saif)はイマームオマーンのアルヤルービ朝二代目で,1650年ポルトガル軍をマスカットを含むオマーンから追い払った実績があるという.つまりオマーン全土統一も図ったわけだ.そして在位中オマーン海軍力を増強し,ポルトガルのインドや東アフリカでの力に対抗し,平和と繁栄を維持したということだ.

以上オマーン縦断2016/ニズワの街のページから.

アルバリード遺跡(オマーン)

アルバリード遺跡(Al Baleed)

アルバリード遺跡(Al Baleed)

アルバリードは紀元前遥か昔,旧約聖書エルサレムのソロモン王と同時期,紀元前10世紀頃のシバの女王の時代からあり,栄えていたと伝えられるようだ.シバ王国はエイメンやオマーン南のこのサラーサ辺りが支配下ではなかったかとする説があるそうだ.なおシバの女王がロモン王に献上した2トンにも及ぶとされる貢物の中には,乳香も含まれたいたそうだ.

さてこの石積み建造物はそれより遥か時代が下り,イスラムに移行したよりまた遥か後世,中世アルダファ(AL Dhofar)の頃の宮殿かとも見られるようだ.

以上オマーン縦断2016/サラーラの街のページから.

ホールルーリ遺跡(オマーン)

ホールルーリ遺跡(Khor Rori)

ホールルーリ遺跡(Khor Rori)

BC3世紀~5世紀ADの古代都市サムフラムに築かれたホールルーリ,イスラム以前ドファール(Dhofar)地方の最重要定住地で,また乳香生産地の中心であった.南アラビア文字の碑文(下参照)が城壁ゲートに刻まれている.城壁の外では街の第一段階BC3世紀~1世紀ADの小さな寺院や構造物が発掘されている.

ホールルーリの街(城)は乳香交易の中心であったのでアラビア海の入江に面している.ホールルーリのホール(Khor)とは正にその入江の意だそうだ.ホールルーリの入江の港にはロープで外板を固定し,組み立てたというダウ船が行き交っていたであろう.

以上オマーン縦断2016/ホールルーリ遺跡のページから.

タシチョゾン(ブータン)

首都ティンプー(Thimphu)のタシチョゾン(Tashichho dzong)

首都ティンプー(Thimphu)のタシチョゾン(Tashichho dzong)

首都の都庁兼寺院ゾン,タシチョゾン(Tashichho dzong).国教であるチベット仏教ドゥルック派の総本山を兼ねるそうだ.

以上ブータン紀行2016/ウォンディポダンのページから.

ジャカルゾン(ブータン)

ブムタン谷(Bumthang valley)のジャカルゾン(Jakar Dzong)

ブムタン谷(Bumthang valley)のジャカルゾン(Jakar Dzong)

ブムタン県の政教一体庁舎.写真は中庭で,先は高い箇所があるので仏教エリアだったかな....

以上ブータン紀行2016/ブムタン谷のページから.

トンサゾン(ブータン)

トンサ(Trongsa)のトンサゾン

トンサ(Trongsa)のトンサゾン

トンサ県の政教一体庁舎トンサゾンで,写真は県庁エリア.

以上ブータン紀行2016/トンサのページから.

プナカゾン(ブータン)

プナカ(Punakha)のプナカゾン

プナカ(Punakha)のプナカゾン

創建は相当古く1616年,チベットからブータンにやって来て,国家の礎を造ったシャブドンガワンナムゲル(Zhabdrung Nawnag Namgyal)がこのお堂でプナカゾン構想を練り,棟梁に伝え,ゾン建設が始まったということだ.プナカは1955年にティンプーが『通年首都』になるまでの約300年間,少なくともブータンの『冬季首都』だったそうだ.なので初代国王の戴冠式や現第5代ワンチュク国王の結婚式もここで執り行われたということだ.

以上ブータン紀行2016/プナカのページから.

パロゾン(ブータン)

パロ(Paro)のパロゾン

パロ(Paro)のパロゾン

映画『リトルブッダ』の撮影に使われたらしい.パロゾンは17世紀前半,建国の父シャブドンガワンナムゲル(Zhabdrung Nawnag Namgyal)が創建したのが始まりとされているそうだ.つまり前日見てきたプナカゾン(Punakha Dzong)と同じということだ.機能もチベット軍に対する防衛とドゥク派布教の拠点を兼ねた点は同じであると思う.

以上ブータン紀行2016/パロのページから.

キレニア城(北キプロストルコ共和国)

キレニア城(Kyrenia Castle)

キレニア城(Kyrenia Castle)

キレニア港の横,海辺に面したキレニア城は赤味がかった石灰石を積み上げた構造のようだ.オリジナルは9世紀ビザンチン時代にアラブ勢力(海賊)防護のため内城壁の建設が始まり,11世紀末からスタートした遠征十字軍が現在の原型を築き始めたという.そして1489年ヴェネツィア共和国がキプロスを手に入れてから外城壁を強化するなど改築したそうだ.

以上キプロス紀行2016/ギルネ(またはキレニア)のページから.

ニコシア城壁(キプロス)

ニコシア城壁(Venetian walls of Nicosia)

ニコシア城壁(Venetian walls of Nicosia)

ヴェネツィア支配の時代,1567~1569年頃にオスマン帝国防衛のため築かれたそうだ.殆ど円形で全周4.5km,11の張り出した砲台,それと前述のように3つの城門があったそうで,とても頑丈な構造に見える.

以上キプロス紀行2016/南ニコシアのページから.

コロッシ城(キプロス)

コロッシ城(Kolossi Medieval Castle)

コロッシ城(Kolossi Medieval Castle)

中世コロッシ城に着いた.この辺りに関しては先ず,その勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart)の異名もあった英リチャード一世(在位1189年~1199年)軍がリマソール一帯を占拠した時代があった.そしてその後の1210年,リチャード王からテンプル騎士団に領地が譲渡され,やがてそのうちにヨハネ騎士修道会の手に渡り,その修道会により15世紀中ごろ,現在の姿の石造り三階建に改築されたそうだ.お城だけに頑丈そうに見える.

以上キプロス紀行2016/リマソールのページから.

パフォス城(キプロス)

パフォス城(Paphos Castle)

パフォス城(Paphos Castle)

パフォス城は細く突き出た半島の先に建てられている.最初AD13世紀ビザンチン時代,現位置の北,上記浜辺のレストラン付近に,当パフォス港防衛のサランタコロネス砦として築かれたそうだ.それが1222年の地震で崩壊したため,13世紀仏系支配の頃現在の位置に移し,新築されたそうだ.そして1570年オスマントルコ軍襲撃直前に,保管された弾薬に因るものか爆発事故があり,破壊したという.そしてオスマントルコ帝国支配となった1780年,オスマンの下で修復され,現在の姿になったという.

以上キプロス紀行2016/パフォスのページから.

エルサレム旧市街城壁(イスラエル)

エルサレム旧市街城壁(Old Jerusalem walls)

エルサレム旧市街城壁(Old Jerusalem walls)

バスはシオンの丘に近づき,エルサレム旧市街城壁の壁際にきた.迫力ある城壁だ.エルサレム旧市街はエルサレムの街の僅か0.9km2(つまり1km四方足らず)の区画を占めるに過ぎないが世界三大一神教の聖地が集中していると云うことが大変興味深い.

以上イスラエル紀行2015/シオンの丘のページから.

タリン城壁(エストニア)

タリン城壁(Tallinn City walls)

タリン城壁(Tallinn City walls)

タリン城壁は2km弱残っているという.そして所定間隔に立派な監視塔が設けられている.写真の辺りの壁は高さ15m,厚さ3mほどあるそうで,石が漆喰(セメント)で積み上げられたソリッドな構造だ.ちょっとやそっとでは打ち破れないように頑丈に見える.

以上バルト海諸国紀行2014/タリンのページから.

リガ城壁(ラトビア)

リガ城壁(Riga city wall)

リガ城壁(Riga city wall)

現在ここに少しだけ残された城壁で,一部修復も加えられているようだ.ぐるりと城壁があった時代は城門も多くあった筈だが,城門もスウェーデン門一箇所になったようだ.

以上バルト海諸国紀行2014/リガのページから.

ルンダーレ宮殿(ラトビア)

ルンダーレ宮殿(Rundale Palace)

ルンダーレ宮殿(Rundale Palace)

ルンダーレ宮殿は1740年,クールラント大公ビロン公(Ernst Johann von Biron)が,ロシアの女帝アンナ(Anna Ioannovna:在位1730~1740年)ために夏の離宮として建造したそうだ.アンナは,1711年以来クールラント公国主権者で,後にロマノフ朝第4代のロシア皇帝(女帝)となり,ビロン公はアンナの愛人,男妾という立場であったそうだ.

以上バルト海諸国紀行2014/ルンダーレ宮殿のページから.

ゲディミナス城(リトアニア)

ゲディミナス城(Gediminas castle)

ゲディミナス城(Gediminas castle)

13世紀,時のリトアニア大公国の君主ゲディミナス大公(Gediminas:1275~1341年)がこの丘に築城を始め,丘の麓の城(下の城:現在修復中)も含めて16世紀頃に完成したようだ.

以上バルト海諸国紀行2014/ヴィリニュスのページから.

トラカイ城(リトアニア)

トラカイ城(Trakai Island Castle)

トラカイ城(Trakai Island Castle)

トラカイ城,正しくはトラカイ島城はガルヴェ湖に浮かぶ小島の上に建てられている.そして,十分幅広い橋で繋がれ,ここを渡ると城に至る.城の建設はリトアニア公ケーストゥティス (Kestutis) が城の建設に着工し,1409年,前記木彫像の息子ヴィタウタス(Vytautas:在位1401~1430年)により竣工した.ヴィタウタス公は宝物庫を伴ってここに居住し,1430年に没した.つまりトラカイはリトアニア大公国中心,首都であったという.

以上バルト海諸国紀行2014/トラカイのページから.

ヴィラヌフ宮殿(ポーランド)

ヴィラヌフ宮殿(Wilanow palace)

ヴィラヌフ宮殿(Wilanow palace)

17世紀末,ヤン3世ソビエスキ(Jan Ⅲ Sobieski)が夏の宮殿として建てたそうだ.18世紀に増築され,概ね現状の姿になったようで,現在は博物館として公開されている.

以上バルト海諸国紀行2014/ワルシャワのページから.


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