このページは1969~71年仕事でカリフォルニアに滞在していた頃,休日近場に出かけたときの写真を載せました.
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当時私はカリフォルニア中程の田舎町サンタクルーズの辺りに滞在していた.気候は穏やかでサンフランシスコほど寒くなく,ロサンゼルスほど暑くない.いいか悪いか判らないが,1,2月以外殆ど雨が降らない.
買い物やランドリーなどどこに行くにも車が必要なので中古のシボレーコーベアを買い,乗っていた.リアエンジンリアドライブでラルフネーダーがめちゃくちゃ欠陥車として叩いたことで知られていた.でも普通に走る分には問題なかった.一度夜間パトカーに停められたが,片側のウインカーランプが切れているよ,と知らせてくれただけだった.
サンタクルーズは小さな街だがコースターなど備えたビーチタウンがあった.こうして改めて写真を見ると結構な人出で驚いた.
またこの他にも規模は小さいがフィッシャーマンズワーフがあった.魚介料理のレストランはなかなか良いのだが,切り身だと切り分けが最大2倍程度バラつくのにはかなりたまげたものだ.
サンタクルーズは太平洋モントレイベイに接し,水はかなり冷たいそうでシールロック(Seal rock)と呼ばれアザラシの休憩岩が多い.また波が具合良くサーフィンの適地だそうだ.私はサーフィンはできないが釣りは楽しめた.釣りにはライセンスが必要で,スポーツ店でサイズを測るゲージと共に所定料金で得る.
この辺りでよく釣れたのはパーチ(perch)と呼ばれていた.素人でも大きなのがかかり面白いが,刺し身で食べてもあまり美味しくはなかった.
なお湾の南端(写真左上側)には,この時代より後の一時クリント・イーストウッドが市長に就任したカーメル(Carmel)の街があった.当時からとてもきれいな街だった.
ここはヨセミテ国立公園内公園の南側に位置するマリポサグローブの森.なんと3千年以上の樹齢を持つジャイアントセコイア(セコイアオスギ)の木が500本以上生えているという巨大な森.私達はマリポサグローブの駐車場に着くと,そこからオープンカーのトレーンに乗り,巡ったと思う.
そして写真中央には根本がトンネル状に穴が彫られたセコイヤが見える.小型車なら通れるサイズのようだ.観光用に彫られ(元々あった穴を広げた),実際プロモーションになったそうである.ただ現代では保護の観点から見ると逆で,多分こうしたことは許容されないであろう.森で最も大きな木は根元の直径10m,周長29m,高さ63mもあるという.森は屋久島の屋久杉を密にしたようなもので,それは見事だ.
なおMariposaはスペイン語でバタフライの意という.
このミステリースポットは上述サンタクルーズのレッドウッド(Redwood)州立公園林の中にある.レッドウッドはアカマツと同じ樹種であるそうだ.かなり大きい.
ここには傾いた家があり,内部では身長が変わったり,立っている角度が変わったり....といった感覚に見舞われるという.強い磁場の影響で重力の常識が通用しないとか言われるが....私は素直ではないためあまり感ぜず,錯覚では....と疑った.
今度行かれる方は素直な気持ちで試してください.それとレッドウッドはセコイヤのように大きくはないが,真っ直ぐに高く聳え,その林立は見事だと思う.
ゴールデンゲートブリッジはサンフランシスコの代表的シンボルだ.サンタクルーズから車で2時間,あるいはも少し掛かったかもしれない.初めて見たときはホッとしたように思った.
ブリッジはサンフランシスコ湾から太平洋に抜けるゴールデンゲート海峡に懸かる吊り橋.橋の少し湾内側には寒流が流れ,脱出不可能と言われたアルカトラズ島刑務所が置かれたが,1963年には廃止されたようだ.
橋の高さは約227mで,風速が時速80kmに達することもあり,当時は世界最大の吊り橋として建設されたそうだ.橋の建設には、大恐慌時代に安定した雇用を求める多くの人々が参加したが,作業中に多数の労働者が死亡するなど多くの困難があったという.しかし、その後,橋は世界的な観光名所として,また建築技術の傑作として高く評価されるようになったとのことだ.
ゴールデンゲートブリッジを渡った先には確かヒッチコックの「鳥」撮影で使われた海岸があった(と聞いた)ように思う.
ユニオン スクエアはサンフランシスコ商業の中心地で,自分にはあまり縁がないが周辺地域には大手のホテルやデパートの多くが集っている.本社の偉い方がお出でになるときはいつもスクエアに隣接する老舗ホテルにお泊まりだったのだが名前が思い出せない.
そして周辺にはバーや小さな劇場などもいろいろあり楽しかった.また例の有名なケーブルカーのターンポイントも近くにあり,乗客皆で押し,旋回したものだった.
ユニオンスクエアからは中華街(Chinatown)が始まっていた.その始まりには四海(Four seas)と呼ばれるレストランがあり,上述本社の偉い方に連れていってもらったものだ.最高に美味しかったので覚えている.
なお当時規模は大きくないがジャパンタウンもあった.最近サンフランシスコは大阪市と姉妹都市関係を解消したそうだし,関係は悪化しているのであろうか.
ところで当時サンフランシスコは自由で進歩的な雰囲気の街であるが,近年はギャングが増えるなど治安が悪化し,住民が逃げていく傾向にあると新聞に載っている.残念なことですね.
なおサンフランシスコの半分くらいのところにはシリコンバレーが広がり,サンノゼの街が位置していた.私の勤務先の関連事業所も2,3箇所あり,同年代の社員も何人かいた.またサンノゼには日系の「土橋」という小さなスーパーがあり,うなぎとか野沢菜漬けといった日本からの輸入食品があり,よく出かけた.今もあるかな~? フリーウェイではない17号線という道で行ったが,途中シカに注意の標識などはあったが交差点などはフリーウェイ並に少なかったように思う.ただサンノゼ関連の写真は一枚も見つからず残念だ.
カリフォルニアには複数の国立公園や森林があるそうだが,ヨセミテは特に知られているのではなかろうか.私も比較的近く(車で4~5時間位だったか)だったので何度か訪れた.
写真はグレイシャーポイント辺りから眺めた花崗岩のハーフドームで,半球を縦に割った形状から名付けられたそうだ.あんな高いところまで氷河が削ったそうで,驚く.
ハーフドームはヨセミテ渓谷の底から1524mの高さ,海抜2682mという.1870年代半ばまでは「絶対に登頂不可能」と言われていたが,1875年ジョージ・アンダーソンが初登頂に成功したそうだ.
現在ハーフドームの登頂ルートにはいくつかあるが,アンダーソンが切り開いたルートが最も一般的で13.2kmのコースとなるそうだ.
いや~迫力ですね,素晴らしい.北アメリカ一番の落差739mを誇るヨセミテ滝は3段からなるそうだが,さてどこで区切るのかよく判らない.この際区切るのは止そう
滝は春先に雪解けの豊富な水が流れ,夏には水量が減り,秋には枯れてしまうようだ.写真は多分春先訪れたときのものであろう.
(3段区切りの下2段はどうやらこの写真下側岩で隠れた部分にあったようだ)
ヨセミテはとにかく大きな花崗岩の山が多い,いあ全部がそんな感じだ.写真はハーフドーム下の谷を挟んでドーム反対側の眺めで在ったかな~
花崗岩の山は例えば台湾の花蓮(ファーリェン)などでも見られるが,普通に割れ目や凸凹が見える.一方ここの岩はツルンツルンでゴロンゴロンとした感じでちょっと不思議だ.
ところでヨセミテにはクマも棲んでいる.ある時車を持たない若いGr君から,東部から訪ねて来る友人と一緒にヨセミテに連れて行ってくれと頼まれた.そしてOKし,数日後ヨセミテ丘の上に着き,一応シートを置き野宿の準備を整えた.そこでなぜかエール大学生と云う一人も加わって,スナックやちょっと怪しいものを味わっていた.また周囲には幾つものキャンパーパーティが同じように食べたり飲んだりしていた.
そしてふと眺めていたら4,50m先くらいにクマがいるではないか.私はヤバいと思ったが,皆は,あ!クマがいる,と一応驚くが別に逃げもせず,何ら対策もせず野宿に入ってしまった.私もそんなものでいいんだとあっさり思って寝込んでいった.今年の,特に東北のクマ事故とかを知っていたら眠れなかったのではなかろうか.
今回はナパバレーの写真が一枚も見つからなかったので,そこに飛ぶだけの話だ.
上司Mgさんは4人乗りセスナ機を保有し,パイロット免許を有していた.格納庫は近所のワトソンビルという小さな街の空港にあった.こうした小型機専用の空港であるので小さいが,それでも2つの風方向対応のためX型2本の滑走路を備えていた.またMgさんのようなオーナーにリースするための格納庫も結構多く備えていた.格納庫からは3人くらいで押し出した.田舎でも,いや田舎だからこそか飛行機保有者は多いのだろうか.
そして時々誘われて一緒に飛んだのだが,今回はワインで知られるナパバレーだ.やがてワインカントリーに着き,ブドウ畑に囲まれた一軒のワイナリーを訪ねた.ただパイロットと,ほんの少しだけ操縦桿を握る私達も殆どテイスティングは控え目に抑えた.
帰路も殆ど同じルートで戻ったが,途中海上に出て,故意にエンジンを停止し,少し降下して再始動するなど実験もあった.なお失速速度は60マイル/hrで,フリーウェイ上の車と同じくらいだ.車がセスナ機で追われたときはスピードを上げず,低速で走れば逃げられそうだ(←ほんとかな~?)コパイロット席にいた私も操縦桿の押し下げや引き上げ,左右回転を少しだけ試した.車に比べて反応が遅い(ディレイがある)ということと,手を離せばオートパイロットで元の軌道に戻るということが解った.
1960年スコーバレーは1960年には冬季オリンピックが開催されたスキー場だ.近年2022年オリンピックバレー(Olympic Valley)の名称に改称されたようだ.スコーバレーという名前がネイティブアメリカンに対する侮蔑的な意味合いを持っていたためだそうだ.
そして下手なスキーをやるためNmさん御一家と一緒にここにやって来た.ここはネバダ州に近くシエラネヴァダ山脈に囲まれた海抜1,900mということで積雪が多い.
なお1960年スコーバレー大会日本選手入賞者は高見沢 初枝さんがスピードスケートで4,5位となったがメダルは取れなかったようだ.当時はまだ弱かったようですね.
宿泊したロッジでスキー板一式をレンタルし,緩やかな斜面を下りてみる.そして脇のリフトで上り,下る.
下手すぎてゆっくりだが,ゲレンデもリフトも空いており迷惑をかける心配はない.そしてそれなりに楽しい.
ところでスキーは当時アメリカでは金持ちのスポーツと言われていたが,確かにロッジ(モーテル)が普通の西海岸辺りとかと比べて5倍位するので高い.
ある時無計画でどんどん南下するドライブに出かけた.殆どフリーウェイで,しかもLAまでは混んでいないので.時々海岸近くの通りに降りモーテルを探しながら走った.
この辺りはサンタバーバラ辺りだと思う(違っているかな)が,暖かな気候のためかヤシの木が茂っている.
この伝道所は1786年スペインのフランシスコ会修道士によって設立されたそうだ.スペイン風デザインの教会建築の前庭には植物が生い茂っている.
入らなかったが美術館を備え,植民地時代の芸術やアメリカ先住民(チュマシュ族)の遺物が展示されているようだ.ミッションは現在も活動を続けており,フランシスコ会修道士が常駐しているそうだ.
ディズニーランドは確かLAを過ぎてオレンジカウンティに位置していた.なのでここに着く前にLAの名所もあちこち巡った.例えばサンセットストリップを通り,ビバリーヒルズを通過し,チャイニーズ・シアターの足型をさらーと見て回ったりした.北の田舎から出てきたお上りさんには片側6レーンもあるフリーウェイの乗り降りが大変で怖かった.
まあそんな訳でディズニーランドに到着した.まあ老舗のテーマパークであるのでいろいろ揃っていたが,舞浜のように長く並んだ記憶はない.またそれほど斬新な感じは受けないが,例えば潜水艦などは楽しいと思った.
内容は覚えてないが,例えばこのフロンティアランドは西部開拓時代の結構地味なアトラクションだったのではなかろうか.
写真など何も残ってないのだがディズニーランドとは別の機会にユニバーサルスタジオを訪れたことがあった.例えば一つに建物屋根上でピストルで打ち合うショーがあり,銃口を向けながら屋根から飛び降りたり,なかなか迫力があった.本物の西部の街セットとスタントマンのショーであろうが,西部劇を生で見るようで楽しかった.人間が古いのでハリーポッターより西部劇が好きなのだ.
さらに南下しサンディエゴ辺りになった.サンディエゴ(San Diego)には大きな海軍基地があり,道路を走っていてもグレーの艦船がよく見える.
そして適当なモーテルを見つけてここで一泊する.大分暖かくなったのかヤシに木が立派に育っている.
サンディエゴには動物園もあって,訪ねてみた.哺乳類のみならず,蛇や鳥までいたと思うが,写真は残ってなかった.右は地味ながらトラかな.
最もインパクトがあったのはオランウータンで,自分の糞を客に投げつけるので注意!!との看板が出ていたことだ.オランウータンに悪さをしなければ大丈夫....と思うが.
そしてメヒコ(Mexico)の標識が掛かる国境の街ティフアナに到着した.米側はサンディエゴかな?
無計画で出てきておりパスポートを所持してなかったのでメキシコには入れない,無念.ただ反省の色は薄く,後に訪れたナイアガラでも不携行でカナダ側に渡れなかったのだ.この頃はまだ若かったのに....先が危ぶまれる,と思ったが実際今の歳になってず~っと酷いものになっている.
ティフアナの現在の人口は約192万人で州内最大の都市.国境付近で麻薬組織対警察との銃撃戦が長い間展開されていたそうでアメリカからの日帰り観光客が減っていたが,近年戻りつつあるようだ.
今回はサンノゼの一つのオフィスで勤務のマネジャーSkさんが暫く東京に行くので,所有の大きな車クライスラーニューヨーカーを使っていいよ,とおっしゃった.そこで私を含めてサンノゼ周辺勤務のSzさん,Amさん,Hzさん,私の若い者同士でお借りしてちょっと遠くまで出かけることにした.
そしてその案は,デスバレー,ラスベガスを経由しアリゾナのグランドキャニオンに行こうということでまとまった.
写真はサンノゼから大分南下し,あと少し先からデスバレーに入ろうかと云う辺りだった.一応作戦会議のつもりだったかな.
クライスラーニューヨーカーはGMのキャデラック,フォードのリンカーンに相当する今なきクライスラー社一番,350馬力の大型車だ.以前のゴテゴテはなくスッキリした外観だ.
そして交代でドライブしながら進もうと改めて話し合った.写真のように私には大きすぎるのだがLAのように交通量の多いところではないので大丈夫であろう.
でデスバレーに入っていった.フリーウェイではなかったかも知れないが,砂漠の中なので交差点や信号は殆どないのでフリーウェイと同じだ.スピーディングの恐れもないであろう.ところがこんな辺境の地にもお巡りさんが居るのですね.Hzさんがドライブしていたとき,パトカーが追っかけてきて,20マイル/Hrくらいオーバーしていると,とっ捕まってしまった.砂漠の中で信じられないような....で,罰金は皆でシェアし,以降スピード遵守で行こうとなった.
デスバレーを抜けネバダ州に入り,そしてラスベガスの街に着いた.ホテルというかカジノというか,まあそういった鉄火場が多く並んでいる.私達もホテルを確保し,スロットマシンなどちょっとしたものを楽しんだ.
ラスベガスの主要産業はカジノで大きな観光資源となっている.ホテルのほとんどにカジノが併設されているのはもちろん,空港ターミナル内など公的施設にもスロットマシンが設置されており,24時間営業を行っているそうだ.
そこで写真のようなネオン看板が光っている.ただ右端のStardustのように3次元で派手なものが多いが,新宿とか香港とかと比べて密度は低いかな.なおStardustは客室数1500と巨大で各種エンターテイメントやプール,ヘルスクラブといったアメニティー,幾つものレストランを備えるそうだ.
私達は別のホテルで,よく解らないながら小規模な歌やダンスショーなども楽しめた.
ラスベガスの後はグランドキャニオン目がける.先ずネバダ州を抜けアリゾナ州に入る.グランドキャニオンはその入った直ぐの辺り,つまりアリゾナ州北端に位置している.そして到着し,展望台に至り眺める.いや~Grandの名のように雄大ですね.
峡谷を覗くと細めのきれいなコロラド川が流れ,抉られた色々な地層の壁が立ち上がっている.約4000万年前コロラド川による浸食が始まり,500万年前に峡谷の全容を現し,現在見られるような峡谷になったのは約200万年前ということだ.あまりに長いレンジで私の頭では想像もできない.まあいいか.なお今も浸食は続いているそうだ.これは川が流れ降雨もあるので,そうだろうと思う.
さてこれで念願のグランドキャニオン訪問を終えた.この後私達はラスベガスに戻り,そこから途中核実験場エリアのあるネバダ州を北上し,リノ(Reno)の辺りで西に折れ,ヨセミテ経由でサンノゼに,私はさらにサンタクルーズに戻った気がする.記憶が曖昧だが.
仕事でニューヨークに出張でやって来た.多分ラガーディア空港からマンハッタンのオフィスにタクシーで行ったと思う.オフィスはエンパイアステートビル内で,お手洗いに行くにもキーが複数必要で,お上りさんは面食らったものだ.
エンパイアステートビル屋上からはマンハッタンがよく望め,望遠鏡や音の便り用ソノシートのカッティングマシンなどが据えてあった.
そして一応仕事が済むと,オフィス駐在の親切なThさんにNY市内各所を車で案内して頂いた.道幅が狭くカーブが多く,運転は大変そうだ.終わりにThさんのご自宅に招かれ,奥様お手製イカそうめんのたらこ和えなど美味しく頂いたのが忘れられない.ありがとうございました.
それと一人でセントラルパークに行ったり,地下鉄には絶対乗らないようアドバイスされた.で写真のハドソン川フェリーにに乗ってみたのだ.感材劣化と天気でボケてるが.
話は飛ぶがハドソン川と言えば2009年,USエアウェイズのエアバスA320-214が多分バードストライクで両エンジン停止し,ハドソン川に着水,全員救出の事件が知られる.映画ではサリー機長(トム・ハンクス)が会社に損害を与えたとして訴えられた.会社は敗訴するのだが当たり前だろう.着水しなければ多数の犠牲者が出たかも知れない,これを未然に防いだのだ.それを訴えるなんてどう考えてもおかしいだろう.
マンハッタンのオフィス近くを歩いてみた.大都会のオフィス街なので特段面白いというわけではないが,やはりNYは凄いな~とお上りさん的感覚が味わえた.
これより10年以上後,駐在中の方が地下鉄内で知らぬ間に殴られ,半身不随の事故に遭われた.NYに限らずアメリカは物騒なので人の多い場所でも注意が怠れない.
NYからの帰路,ナイアガラの滝に寄り道した.当時ナイアガラに行くフライトは無かったのでバッファロー空港からタクシーでナイアガラに行った.写真のタクシードライバさんには見物中待機してもらい,その後バッファローに送り返してもらうことにした.
それにしても江戸時代の写真のようなものしか無かった.一応昭和なのだが.
これも大ボケであるが一応幅の広い滝が見える.これほど幅広い滝は初めてで圧倒的だ.迫力ですね.
この滝は18,000年前,高さ2〜3kmもの厚い氷に覆われていたそうだ.それが数千年かけ完全に溶け,滝が形成されたということだ.そしてこの地に初めて人が足を踏み入れたのは1万2千年前(縄文時代初期ですね)という.またその頃滝は現位置から11km下流にあったそうで,それが侵食され現位置まで移動したということだ.1,000年毎に1kmくらい動いたことになろうが,大移動か,あるいは常識的値なのか......解らないが興味深い.
ここは⑪メキシコ国境の街ティフアナの項に記したように,またパスポートを携行してなかった.でカナダ側からの景観は味わえなかった.困ったもんだ.
黄葉がきれいですね.西海岸の少なくともカリフォルニアではこうした風景はあまり見ることができない.やはり色づいた樹木はいいですね.
そして待っていてもらったタクシーにバッファロー空港まで運んでもらい,確かユナイテッドエアラインで飛んだ.
1971年帰国することになった.色々お世話になった方々に挨拶して回った.写真はその中の一人Mgさんとそのご家族.ありがとうございました.
帰国ではハワイ島で少し道草食っていこうとNmさんと相談し,先ずはフライトの都合から一旦オアフ島に宿泊した.
写真を見るとワイキキビーチに宿泊したようだ.ビーチは空いていていいですね.
そして翌日ハワイ島に飛び,タクシーで島周りすることにした.
島のあちこちは火山の噴火溶岩流の名残りか黒っぽい土地が多い.つい今年9月にもキラウエア火山が噴火し,死者数十人という重大事故が起こった.ご冥福祈ります.
島のある場所で,ドライバさんが車を緩やかな坂の下に停めると,車は短い区間だが坂を登った.重い質量の物質が直下にあるのであろうか?と不思議だった.これは④ミステリースポットの項で述べた錯覚と違い,短い区間ではあるがほんとに登っていると思った.
ここはハワイ島主要都市近く(でもないかな),プナルウ黒砂海岸(Punaluu Black Snad Beach)だ.黒い砂はやはり溶岩が長い年月で砕け形成されたものだそうだ.
ヒロにはコナコーヒー(最近はヒロコーヒーと呼ぶようだが)があった.やはり高い標高で昼夜の温度差が大きいところで採れるのでしょうか.味は結構個性的だったように思う.
ということで滞米中の小さな旅を思い出して綴った.おしまい.
(2023/12/02記す)