このページは1986年フィリピン(マニラとセブ島)の写真を載せました.
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1986年8月3日からのお盆休みでフィリピンのセブ島とマニラで少しの観光とビーチリゾートを楽しんできた.パッケージツアーだが私達家族だけのガイド付きで団体行動は無いのだが,車内にカメラマンが乗り込んでこられたのにはシートが狭くなって閉口した.
成田10:30発フィリピンエアラインで出発した.一旦マニラに至り,セブ島に行く予定だ.
途中後ろから乱暴に背もたれが叩かれ何か文句を言われた.見るとその筋系の人に思われた.当時マニラはそういった方々が集結していると言われていたので私の先入観があったかも知れないが.
マニラ経由でセブ島に到着した.そして私達のガイドさんが車を伴って空港に現れ,ピックアップしセブ市のホテル(名前は失念)に運んでくれた.
レセプションと緑に包まれたプールの間にはカフェが位置しなかなか気が利いている.
ビーチは白い砂で海は紺碧で波も穏やかだ.水にはもちろん入ったが,シュノーケルは持ってこなかったかな.....
磯辺でこうしてボケーとしているのも実にいいものですね.
プールは上述のレセピション前のそれと繋がっているのだと思う.とても空いているし天気もいいし,わら屋根のバーも備えているし,ビーチリゾートはいいですね.
1738年にスペイン植民地時代に建てられた要塞だそうだ.元々はスペインにより建築されたもので敵対するイスラム勢力からの攻撃に対抗するために建設されたという.イスラム勢力との争いがそれほど昔からあったと聞き,驚いてしまった.
現在要塞には歴史的展示物が多く用意されているということだ.
1521年フィリピン最初のキリスト教徒となったフマボン王とファナ女王,そして臣下400人が洗礼を受けた場所で,ここにマゼランが建てた木製の十字架があったそうな.そしてそれが奇跡を呼び,万病に効くと信じた信徒がが十字架を削りとるようになり,十字架はいよいよ全壊しそうになった.そこで1834年,これを囲む八角堂が造られ,十字架も外側部分はコピー品に代えられた,ということだ.
でもこの写真でクロスは見えないですね,写真中央黒い棒の先に付いているのかな.....まあ単純に写真の失敗ですね,すみません.
マゼランはスペインの航海者で探検家,さらにスペイン帝国の艦隊を率いたという.ただマゼラン自身は航海半ばの1521年に亡くなり,部下が艦隊の指揮を引き継ぎ,1522年に史上初の世界一周を果たしたそうだ.
そしてこれまた驚くことにキリストの伝道者でもあった訳だ.しかし当スペインはじめ欧列強はセキア制覇の一手段としてキリスト教を利用していたのは事実で,ここはその一面でしょうね.
フィリピン最古のカトリック教会で,マゼランからラジャ・フマボン(Rajah Humabon)に¥贈られた「サント・ニーニョ像」が収められていりのだそうだ.「サント・ニーニョ像」は「奇跡の像」とも呼ばれているそうだ.
サントニーニョがフィリピンで敬われているのは,1521年、マゼランがフィリピンのセブ島に到着し,当地指導者フマボンと会い話をするうちにフマボンがキリスト教に興味をもち,さらに自らの家族と800人の部下と共に洗礼を受けたのだが,このときマゼランが洗礼のお祝いに贈ったのがサントニーニョの像であったということだ.こうした御礼返しは欧州でもあったのですね.また少しびっくり.まあ入信のインセンティブにもなったと思う.
ところでサント・ニーニョは「聖なる幼きイエス」という意味で.地球温暖化で「エルニーニョ現象」という言葉が使われるが,(サント)ニーニョと同意という.
丘に立つと背後に見えるのは中国寺院で,「老子」の教義が祀られているそうだ.フィリピンには先住民のマレー系,スパニッシュ系,中国系(華僑)の人種やその混血が多いそうだ.中国系は戦後からフィリピンに入植し,ビジネス面での成功を収め,フィリピンの経済を動かすに至っているという.華僑は絆が強く,この道教寺院も972年そうしたコミュニティーの寄付によって建てられたそうだ.
キリスト教会が立ち並ぶこのセブ島で中国寺院は異彩を放ち,物珍しさからセブ島の観光名所として紹介されているそうだ.
海岸脇のリゾートエリアはきれいなのだが,一般エリアの市場はちょっと違う.まだ野菜はいいと思うのだが,道の反対側は肉屋さんなどが並んでいる.臭いなど多く娘はこの辺りで吐いてしまった.
大変珍しいことに馬車が活躍している.観光用ではなく一般のタクシー同様で,ある程度荷物も詰めるので,市場近くでは特に重宝するのでは.
セブ島で過ごしてきたが終わりはマニラで過ごす.
そのホテルは素晴らしいシェラトンだった.部屋はラグジャリーでプールやレストランも良かった.プールはここも空いており結構だ.
ただホテルはよく経営者が変わったり,37年も昔のことなので今は違ってきたでしょうね.
泳いだ後標記の墓地に案内してもらった.太平洋戦争で命を落としたアメリカ人1万7000人以上が眠るという広大な墓地.広々とした敷地に真っ白な十字架が並んでいる.中央にはモニュメントがそびえ、周囲を円形に囲う記念館には行方不明を含む犠牲者3万6279人の名前が刻まれているようだ.また当時の戦闘の経緯を示した資料を見ることもできるそうである.
フィリピンは米の植民地になったこともあるが,太平洋戦争の死亡者であるからやはり日本軍による人が多いのであろうか.....
MSのCopilotに訊いてみました.すると墓地の礼拝堂は、アール・デコ・チャペルと呼ばれ,ボリス・ロヴェト・ロルスキによる浮き彫りで飾られているという.正面には,自由,正義,国家という寓意的な人物が描かれ.頂点にはこの写真の子供を抱くコロンビアが冠されているのだそうだ.礼拝堂の内部には、アール・デコ様式で永遠に生きる花の美しいモザイクがあるということだ.
ということで翌日はマニラから成田に飛んだ.楽しかった.
(2023/12/02記す)