2000年仕事でワシントンDCに短期間滞在したとき,週末と休暇を合わせてメキシコシテイとテオティワカン見物に出かけたときの写真を載せた.日系エージェントに航空便やホテル,ガイドさんの手配を頼んだのだが,たまたまニューヨークのMさんという方が同じようなプランを依頼しているというのでメキシコシテイのホテルと市内観光,テオティワカン観光は一緒に行おうと言うことになった.私はデルタ航空で①ロナルドレーガン空港→②アトランタ空港→③メキシコシテイと飛んだ.MさんはダイレクトでNY→メキシコシテイに至り,ホテルで落ち合い,以降ガイドGさんに案内されあちこち巡った.
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メキシコシティ国際空港に到着した.大国際空港だが流石ロナルドレーガン空港クラスまでは無理なようだ.予め「アミーゴ,何とかかんとか...」とか声を掛けられたら怪しいのでかなり安全な空港タクシーに乗るのですよと教えられていた.そしてその通りにした
都心までは5km程度と近い.かなり混んでいるが樹木が茂りきれいな道だ.
通りの先方に見えている塔は独立記念碑で1910年メキシコ独立革命開始百周年を祝うために造られたそうだ.頂部像像が羽の生えたアンヘル(Angel=日本語のエンジェル)で,アンヘルの通称で呼ばれることが多いようだ.
一旦ホテルに到着し,荷物を置き,NYのMさん,ガイドGさんとお会いした.皆さんどうぞよろしく願います.そして早速都心部の賑やかなところに出かけた.
先ずはこの大きなショッピングモールの入口前ソカロ広場に立ち眺める.モールはクリスマス前なので華々しく飾り立てられている.写真右下は大変日本語がお上手なガイドGさんだ.カトリック国ではクリスマスが終わると急に半額セールなど極端な販売戦略を採ることが多いがここもそうかな~
またこの辺りは「内陸部の王の道」(Camino Real de Tierra Adentro)と呼ばれるそうだ.当メキシコシティと米国ニューメキシコ州の長さ2,560kmの道路で1598年~1882年の頃,銀などの陸上交易の通路として使用されてきたという.この大きな市場はそんな交易路終点の名残であろうか.後にカミーノのメキシコ領内646kmが世界遺産登録されたようだ.
左のメトロポリタン・カテドラルの右隣に建てられているのがSagrario サグラリオで,礼拝堂の意だそうだ.1741年建立でレンガ製なのか赤い側面も風変わりできれいだ.大聖堂に入りきらない信徒の方を入れるために建てられたのであろうか.
メキシカンバロック様式というファサードはなかなか込み入った模様で,バロックとして眺めるととても美しい.
ディエゴ・リベラ(Diego Rivera)は「メキシコ壁画運動」を興した画家.自身の制作では特に大きなフレスコ画を多く残したようだ.この作品名は彼の活動そのものを表現した「メキシコ壁画運動」のようで,セントロ地区の大広場ソカロにある大統領府,国立宮殿(写真に写ってないかな~?)のドーム天井に描かれていた,と思う.
「メキシコ壁画運動」とは欧州的芸術から脱皮し,先住民と欧州文化の融合から誕生したメキシコのアイデンティティを打ち出した芸術ということだ.岡本太郎画伯も影響をうけたという.
石板のテンプロ・マヨール(Templo Mayor)は「大神殿」の意で,アステカの中心都市テノチティトラン(現メキシコシティ)の中心にあった巨大な神殿だったという.テノチティトランはスペイン人によって16世紀に破壊されその上にメキシコシティの街が建てられたようだ.1978年以降に大規模な発掘が行われ,壁で囲まれた25haほどの聖域の構造や78ほどの建物が明らかになったという.そしてその真中に大神殿が在ったわけだ.
大神殿の階段ピラミッドは西を向いて建てられ,その上に軍神でメシカ(メキシコ最大原住民ナワ族の一集団)の守護神でもあるウィツィロポチトリ(南)と,アステカ以前から信仰されている雨と豊穣の神トラロック(北)のそれぞれを祀る2つの神殿が並んでいるそうだ.春分には2つの神殿の間から太陽が昇る配置という.
グアダルーペ寺院は左写真の旧聖堂とその下の新聖堂があるそうだ.この寺院はバチカン公認聖母出現の地としてカトリック教徒にとって最も信仰の篤いところという.
アステカ帝国の滅亡 から10年が経った1531年の12月9日メキシコシティ北にある小さな町グアダルーペに住 む先住民で前日にキリスト教に改宗したばかりだったフアン・ディエゴは朝のミサに向かいテペヤック丘の上を歩いていたそうだ.すると自分同様褐色の肌を持ち自らを聖母マリアと名乗る女性が現れ,この地に礼拝堂を建てる願いを司教に伝えて欲しいと,ディエゴに言った.早速ディエゴは司教に伝えたが,司教は信じなかった.そんなとき聖母マリアは再び現れ珍しい薇の花をディエゴに手渡し,それを司教に見せるとバラを包むラップに聖母マリアの姿が浮かび上がったという.
そうなると事ははかどり1556年、聖母マリアの依頼通り,テペヤックの丘に礼拝堂が建てられたという.
この「グアダルーペの奇跡」は先住民の間に広まり,この奇跡以降,聖母によって重病人の病状が回復するなどの奇跡が起こったと言われ,多くの先住民や他民族がカトリックに改宗したそうだ.
するとテペヤックの丘より信徒の多い今の場所に引っ越しが企画され1709年移転したそうだ.だが移転後この旧聖堂は地盤沈下が激しくかなり傾いたようだ.上写真が傾いているのは撮影のせいであろう,多分.
そこで1976年,旧聖堂の右側に左写真の近代的な新聖堂が建設されたという.建物はいっぱいあるようだ.ミサは主に新聖堂で執り行われ,旧聖堂は大体観光用に残されているようだ.
青い吊り屋根構造建物が主礼拝堂のようだ.
ところで聖母マリアの出現は世界各地で報告され,例えば秋田の修道院,1973年の出現はバチカン公認で本物とされているそうな.一方メジュゴリエなどでの出現は大勢の信徒を集めているが,バチカンは金儲けのインチキと公式に発表しているという.まあ宗教は色々な側面があるので.....
さてこの日はこの辺でおしまいとし,食事して名は覚えてないがホテルに戻った.お風呂の後ベッドに入るが暖房がなく毛布も薄いので寒くてしょうがない.隣のベッドの毛布を剥がして重ねるがそれでも寒かった.翌朝起きてMさんと話すとやはり寒かったという.メキシコシティの標高は2300mということで平地より14℃くらい低いのであろう.もっといいホテルにすべきだった.
テオティワカン月のピラミッドから望む死者の大通り
ここがメキシコで一番観たかったテオティワカン遺跡(Teotihuacan)だ.ここは首都メキシコシティ北東50km地点にあり,日本での弥生時代から古墳時代末期相当の紀元前2世紀から6世紀まで繁栄し,人口10万強で当時の東ローマ帝国都コンスタンティノープル並の規模だったらしい.テオティワカン文明の中心となったのは巨大な宗教都市遺跡で,当時のメソアメリカ(中間アメリカ)最大規模でその中心的都市として機能していたという.
テオティワカン人の宇宙や宗教観を表す計画的に設計された都市で太陽のピラミッド月のピラミッドそして南北5kmの死者の大通り(この写真右よりの通り)を基点として各施設が配置されている.農業や文化と関係深い神,植物の再生と関係ある神など祀られていたそうだ.
テオティワカンとは「神々の都市」の意で,12世紀頃にこの地にやってきて,既に廃墟となっていた都市を発見したアステカ人が命名したそうだしかもアステカ人はテオティワカンを後々まで崇拝の対象としたというところが興味深い.また神々への供物として生け贄の風習があったのが明らかになった.私は首都に戻り歴史博物館を訪れ,ガイドGさんに解説してもらった.神への生け贄である心臓を入れる容器が最初は一人分,それが年を追うごとに大きく(多分10人分くらい)なっていったのには大変驚いた.しかしこれはテオティワカンの広場で行われた危険な球技で勝った方の選手が神に捧げることは大変な名誉と,自主的にドナーとなったというのだ.これには更に驚き,今回旅行最大のインパクトで忘れられない.
テオティワカン太陽のピラミッド
底辺222m×225m,高さ65mという本遺跡最大の建造物.ただ修復には他遺跡からの想像や真似が多く,手が加えられ過ぎているとの評価が多いようだ.確かにエッジのある石構造材などかなり不自然だ.だが1987年古代都市テオティワカン(Pre-Hispanic City of Teotihuacan)としてちゃんと世界遺産に登録されている.
また政治的方面に限らずテオティワカン様式の芸術も国際的に大きな勢力を持ち1000km離れた古典期マヤ文明にも大きな影響を及ぼしたそうだ.ただ文字がなかったのは惜しい.
戦争または上述の重く硬いボムボールを使う球技の装束であったか,そんな装束のウエイターを眺めながら食事した.
ひょっとしたらここではなくランチを摂った少しワイルドなレストランだったかもしれないが.同行のMさんはNY大使館のシェフで大変研究熱心だ.あらゆる調味料を少しずつ丁寧に味見している.そしてメインにイグアナの姿焼きを試された.そして私にもどうぞと勧めて下さった.大きなさらに仰向けで手足を広げた格好だ.私は一部ナイフで削り目をつぶってビクビクしながら口にいれた.味がどうのこうの云う余裕は全くなかった.
Mさんは大使館では招く客は赴任地米の人,諸外国からの来米者,日本から来る人色々なので,それらの皆様の口に合うように調理しないとならないが,美味しいので,大使には栄養過多になり易い.Mさんはフランスや中国,モンゴルなどの勤務があったが,モンゴルなどでは食材の調達なども苦労するそうだ.そんな訳で各国料理の研究一徹なのだ.
そして私達は首都の寒いホテルに戻った.
今日も好天だ(多分毎日かな?)ガイドGさんの案内でクエルナバカ大聖堂方面に出かけた.周辺は緑豊かで美しい.
クエルナバカ大聖堂はモレロス州クエルナバカ街中にある. 世界遺産「ポポカテペトル山腹の修道院」(Earliest 16th-Century Monasteries on the Slopes of Popocatepetl)の1つとして登録されているそうだ.
これがクエルナバカ大聖堂ファサード.歴史を感じさせる造りだ.世界遺産名に修道院が含まれるように周りは数多くの修道院で’囲まれているようだ.1529年に征服者コルテスの命令で,先住民に対する宣教目的に建てられたようだ.解りやすい.
内部に入らなかったが.16世紀豊臣秀吉に弾圧されたキリシタン「日本二十六聖人」が描かれた壁画があるそうだ.
実はクエルナバカとタスコの街は隣り合わせで山の斜面にかなり密集して建てられている.山はシェラマドレデル・スールと呼ばれ,かつて鉱山王ボルダの経営する銀鉱山があり栄えたそうだ.特にタスコは1500年も前から銀鉱山があったそうだ.白い壁に赤い屋根の建物が多く,スペイン風だ.
山中腹,2つの尖塔を持つのはタスコのサンタプリスカ教区教会ではなかろうか.大きな教会ですね.
坂の街であるが石畳の道にバルコニーから垂れたゼラニュームの家々,快適そうだ.
上述の銀鉱王ボルダが銀鉱山で稼いだお金を寄贈して1750年代に建立されたというタスコの教会がサンタプリスカ教区教会(La Parroquia de Santa Prisca).メキシコで最も壮大な教会のひとつであるそうな.
スペインバロック様式だそうで,玄関上や鐘楼などなかなかごちゃごちゃ,ゴージャスだ.内部は写真がなかったが金ピカゴテゴテだったような...
さてこれでメキシコシティ近辺の見物は終えた.そして首都のホテルに戻った.ガイドGさん,ドライバさんありがとうございました.
そして翌日になった.ちょっと散歩した程度でMさんはNYに,私はワシントンDCに戻ることになった.Mさんありがとうございました.私は地下鉄で空港に行った.そしてデルタ便の搭乗を待つ.だがなかなかコールがない.高地のためエンジンが始動しないとのことだ.一日中頻繁にジェット旅客機が飛び立っているのにそんなバカなことあるのか?と疑問に思った.標高2300mだそうだがボリビアのラパス空港など4061mと遥かに高いが平気だぞ.
やがて始動し離陸した.だいぶ遅れたためアトランタの乗り継ぎ時間があまりない.CAに上手く乗り継ぐ方法はないか,と尋ねると,大丈夫だ時間はたっぷりあると言うばかりだ.CAは自国民で入国審査はサーッと通過だが,外国人入国が時間を要することを考えてくれない.実際アトランタ乗り継ぎは走り巡り通過した.DC行きは順調に飛び定刻にランディングした.楽しかった.
(2023/12/02記す)