このベトナム2000は.カンボジア旅行の経由地としてホーチミンシテイに立ち寄り少しばかり見物したときの写真を載せた.
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カンボジア行きで,往復とも羽田→関空→ホーチミンシテイ(サイゴン)→シュムリアップに飛んだ..
今回はパッケージツアー(JTB)であるがカンボジア同様私たち夫婦2人だけの専属ガイドと運転手付きだった.ただしガイド氏は本来有能なのであろうが,時間がたっぷりあるに拘わらず見物箇所を省いたり,自分の店舗に強く引き込んだり...と甚だ困ったもんだ.社会主義に移行してから能力や働きに応じた報酬が得られないし,賄賂の横行も甚だしいという.例えば医者のなり手は極端に少なくなり,ガイド氏もそんな社会に調子を合わせなるべくサボるのだという.ほんとにそうです.
この後ベトナムには2回旅したがそれほどひどいガイドはいなかった.ただ賄賂(かなりの大金)なくして働く場所も得られないと言っていた.
ホーチミン市タンソンニャット国際空港 (SGN) に着き,前述のガイド氏に車でピックアップしてもらう.そしてそのまま市内に入り要所要所下車し見物して歩いた.
害して交通量は多く建物や看板も色々でいかにもアジアの街の雰囲気だ.写真はたまたま見かけた三輪リキシャで,浅草の人力車とか異なり,ドライバさんが乗って漕ぐのでスピードが出そうだ.客席はガードなしの最前なので怖そうだ,そして私達お上りさんを見かけるとこうしたリキシャなどが寄ってくる.
ここのノートルダム大聖堂は下記郵便局近くに位置しフランス人が1880年代後半に建てたという.当時ベトナムは仏教徒が主で,カトリックの布教活動の一つであったのであろうと思う.
大聖堂はネオロマネスク様式でファサードなどは赤レンガで造られているそうだ,パリのノートルダム同様前側に2つの尖塔を持つが,色が違うためかかなり異なる印象を受ける.
内部にホーチミンの大きな写真を掲げたサイゴン中央郵便局.郵便事業にく加えてかつての日本の郵便局同様貯金も扱っているのがおもしろい.でも現在は日本同様分離されたかな~
1891年フランス植民地時代に仏様式デザインで建てられたようだ.
当初フランスがこの辺り一体を「インドシナ」として植民地支配した1868年に着工され,宮殿として完成したそうだ.以来第二次大戦終結の1945年までフランス総督に使用されてきたという.後に反仏活動が激しくなり,ついに第一次インドシナ戦争,ディエンビエンフーの戦いで1954年仏軍は降伏,後にベトナム共和国(南ベトナム)成立,だが次にベトナム戦争で北とベトコンに破れ(写真のゲートがベトコン洗車に撃破された)「統一会堂」の名になったそうだ.南は完敗,消滅したわけだが,後々わだかまりを緩和するため「統一」の名にしたようだ.
そして私達はあまり気乗りしないガイドにそれなりに他も案内してもらった.例えば青果市場とか....こうした場所は活気があって日常を垣間見ることができ楽しい.
まあこうしたことで無事,いや少し物足りなくホーチミンシテイ巡りが終わったのである.最も印象深いのは主にガイド氏からの情報であるがやはり南が北やベトコンにやられた結果の国家や人々の足場の変化だ.多分明治維新の東西軍の争いやその結果長州など一部の官軍に支配され抑えられたときのような様子に似ているだろう.それは一党独裁であるため今後長く続くであろうが世代交代に連れ薄まっていくのであろうか.またサイゴンからホーチミン(シテイ)への改名は,いわば東軍に破れた大阪軍が「以降大阪は徳川市に改めよ」と言われたようなもので,市民の悔しさ,無念さが想像できる.実際後の旅行でサイゴンの名を使う幾人かには出会ったものだ.
(2023/12/02記す)