このページでは既存ページから転載し,テ・ワヒポウナム-南西ニュージーランド,ドナウ河岸・ブダ城地区とアンドラーシ通りを含むブダペスト(ハンガリー),シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア),ウィーン歴史地区(同),プラハ歴史地区(チェコ),ドレスデン・エルベ渓谷(ドイツ),ベルリンのムゼウムスインゼル(博物館島)(同),ヴェローナ市街(イタリア),ヴェネツィア(ベネチア)とその潟(同),フィレンツェ歴史地区(同),ローマ歴史地区,教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(同),バチカン市国(バチカン),アントニ・ガウディの作品群(スペイン),タラコの考古遺産(同),バレンシアのバレンシアのラロンハ・デラセダ(同),グラナダのアルハンブラ,ヘネラリーフェ,アルバイシン(同),コルドバ歴史地区(同),セビリアの大聖堂,アルカサル,インディアス古文書館(同),サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(同),サラマンカ旧市街(同),アビラ旧市街と市壁外の教会群(同),セゴビア旧市街と水道橋(同),エヴォラ歴史地区(ポルトガル),リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔(同),シントラの文化的景観(同),バターリャ修道院(同),ポルト歴史地区(同),デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド),デリーのフマーユーン廟(同),ジャイプルのジャンタル・マンタル(同),ファテープル・シークリー(同),アーグラ城塞(同),タージマハル(同),イスタンブール歴史地域(トルコ),トロイ(イリオス)の古代遺跡(同),ヒエラポリス-パムッカレ(同),ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群(同),アブメナ(エジプト)の写真を載せました.
テ・ワヒポウナム-南西ニュージーランド(Te Wahipounamu - South West New Zealand)
テ・ワヒポウナムはマオリ語で「グリーンストーン(翡翠)の産地」を意味するそうだ.テ・ワヒポウナムにはフィヨルドランド国立公園やアオラキ/マウントクック国立公園など,広い範囲が含まれているようだ.ニュージーランド/1990年自然遺産
以上ニュージーランドの旅2003/ミルフォードサウンドのページから.
ドナウ河岸・ブダ城地区とアンドラーシ通りを含むブダペスト
Budapest, including the Banks of the Danube, the Buda Castle Quarter and Andrassy Av
ブダペストは”ドナウ川の真珠”と呼ばれるそうで,なかなか美しい中世的な街がドナウの両岸に広がる.その昔,左岸のブダと右岸のペストはドナウを挟んで別々の自治体であったが,合併で1つの町になったようだ.中央にくさり橋が見え,左岸には王宮や次節の漁夫の砦,マーチャーシュ教会がある.右岸には国会議事堂や大聖堂が見える.ハンガリー/1987年文化遺産.
以上中欧の旅2003/ブダペストのページから.
シェーンブルン宮殿と庭園群(Palace and Gardens of Schonbrunn)
17世紀から歴代のハプスブルク家の支配者たちが増改築を繰り返して1713年に完成した同家夏の宮殿.ベルサイユ宮殿に対抗して建てられたそうで,この壮麗な宮殿は,外観がバロック様式,内部がロココ様式というが,この違いが分からないのがちょっと寂しい.何にしても豪華絢爛,ゴテゴテ....と云う訳で必ずしも筆者のティストにマッチするとは言い難い(端から相手にされないであろうが,一応).1815年のウィーン会議では舞踏会場になった.1400室(すごい!!)もある部屋のうち,現在は40室を公開しているというが,撮影禁止なのが残念.オーストリア共和国/1996年文化遺産.
以上中欧の旅2003/ウィーンのページから.
ウィーン歴史地区(Historic Center of Vienna)
写真のホーフブルク王宮などを含むエリア.同王宮は13世紀に築かれ,ハプスブルク家が滅亡する1918年までの640年間,ハプスブルク皇帝の居城であったそうだ.旧王宮,新王宮,スイス宮と2つの庭園などを含む敷地の総面積は240,000平方kmにも及ぶそうだ.新王宮が完成する20世紀までに歴代の王が修築/拡張を進めたため,いろいろな時代の建築様式の特徴がミックスされているそうである.オーストリア共和国/2001年文化遺産.
以上中欧の旅2003/ウィーンのページから.
プラハ歴史地区(Historic Center of Prague)
写真の聖ヴィート大聖堂など,プラハ市街中心部が登録対象地域となっており,11世紀から18世紀にかけてのさまざまな時代様式の建築物が残るエリアのようである.チェコ共和国 /1992年文化遺産.
以上中欧の旅2003/プラハのページから.
ドレスデン・エルベ渓谷(Dresden Elbe Valley)
ドレスデンは旧東独に位置する街で,エルベ川の水運を利用した商業都市として,また16世紀以降はザクセン王国の首都として,芸術と文化の街ドレスデンとして栄え,今に宮殿や歴史あるオペラハウスを伝える.ドイツ/2004年文化遺産.
以上中欧の旅2003/ドレスデンのページから.
ベルリンのムゼウムスインゼル(博物館島)(Museumsinsel (Museum Island), Berlin)
写真のバビロンのイシュタール門を展示したペルガモン博物館など,5つの博物館や美術館が集まっている地区で,「博物館島」と呼ばれるそうな.ペルガモン博物館はペルガモンで発掘された大理石製の「ゼウスの大祭壇」や,前述の門が展示してある.博物館の名前になっている「ペルガモン」は,現在のトルコのベルガマ(Bergama)地方で紀元前2世紀頃ヘレニズム期に小アジアで栄えたギリシャの植民地国家.その都市国家内にあった神殿の正面部分と壁画が原形どおりに復元されたことから博物館の名前としても付けられることになったそうである.ドイツ/1999年文化遺産.
以上中欧の旅2003/ベルリンのページから.
ヴェローナ市街(City of Verona)
市街地は道幅も狭く古く落ち着いた様子で,ヨーロッパの古都の典型的街並み.人口約25万人,ミラノの東152km,ヴェネツィア(ベネチア)の西115kmで,ちょうど中間に位置する.イタリアとドイツ,オーストリアなどの近隣諸国を結ぶ中継地として栄えているそうだ.農業の集散地として,また商業,工業ともに盛んだそうで,靴の生産はイタリアで1位だそうだ.イタリア/2000年文化遺産.
以上イタリアの旅2003/ヴェローナのページから.
ヴェネツィア(ベネチア)とその潟(Venice and its Lagoon)
ヴェネツィア(ベネチア)本島はイタリア本土から4km離れ,本土とはリベルタ橋でつながっている.118の島が400の橋で結ばれ,160の運河が網の目のように張り巡らされている.人々の交通手段は水上バス,水上タクシー,ゴンドラなどで荷物を運ぶ手押し車と乳母車の他,車の付いた乗り物は中世の頃から禁止されているそうである.子供の乗る自転車も一部の地域で許可されているだけだそうだからきつく伝統を守っているわけだ.イタリア/1987年文化遺産.
以上イタリアの旅2003/ベネチアのページから.
フィレンツェ歴史地区(Historic Center of Florence)
フィレンツェはイタリア/トスカーナ地方にあり,人口35万人の都市.写真手前に見えるアルノ川河畔に発達した市として知られる.イタリア統一後,1865年-1871年の短期間イタリア王国の首都がおかれたこともあるそうだ.フィレンツェは1400年代~1700年代,断続的ではあるが長期にわたりメディチ家の支配下にあったそうである.という訳で,中世からルネサンス期にヨーロッパにおいてフィレンツェは商業および金融の重要な中心地のひとつであり,文化の中心地域としても発達し,美術,建築の傑作が数多く残されているようである.古代ローマ時代,花の女神フローラの町としてフロレンティア(Florentia)と名付けた事が語源とされているそうで,英語でフローレンス(Florence)と呼ばれるのはその名残だそうである.イタリア/1982年文化遺産.
以上イタリアの旅2003/フィレンツェのページから.
ローマ歴史地区,教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
Historic Center of Rome, the Properties of the Holy See in that City Enjoying Extraterritorial Rights and San Paolo Fuori le Mura
イタリアの首都,人口約282万人でイタリア最大の都市に来た.古代ローマ時代の遺跡初め多くの遺跡あり.当市に囲まれるようにローマ教皇の居住する独立国バチカン市国がある.イタリア/1980年文化遺産.
以上イタリアの旅2003/ローマのページから.
バチカン市国(Vatican City)
バチカン市国はローマ教皇(法王)が居住し,ローマ教皇によって統治されている.ローマカトリック教会の総本山.写真はサンピエトロ寺院前の大広場.テレビで信者の集う場面を時々見かける場所だ.バチカンの統治者はローマ教皇であるが,実際の統治はバチカン市国行政庁長官が務めているそうだ.バチカン市国/1984年文化遺産.
以上イタリアの旅2003/ローマのページから.
アントニ・ガウディの作品群(Works of Antoni Gaudi)
バルセロナで活躍した建築家アントニガウディの作品のサグラダ・ファミリア,グエル公園,グエル邸,カサミラなどが世界遺産指定されている.写真のグエル公園はバルセロナ市内の小高い丘にある.スペイン/1984年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/バルセロナのページから.
タラコの考古遺産(Archaeological Ensemble of Tarraco)
バルセロナを出てバレンシアに向けて少し走るとタラゴナに至る.ローマ帝国の時代にはタラコ(Tarraco)と称され,属州ヒスパニアタラコネンシスの州都であったそうだ.写真の水道橋や円形劇場などローマ帝国時代の遺跡が今日まで残されているそうだ.筆者はこの水道橋を眺めただけだが.後,西ゴート王国の支配を経て,さらに8世紀前半にはイスラム勢力の支配下に置かれたようである.やがて12世紀になると,アラゴン王国により征服され,再びキリスト教の世界へ変遷したそうだ.スペイン/2000年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/バレンシアのページから.
バレンシアのラロンハ・デラセダ(La Lonja de la Seda de Valencia)
「絹の交易所」の意だという.イスラム勢力を倒した後,15世紀末,その王宮跡に建てられたゴシック様式の建物.古くから地中海貿易の中継基地として栄え,また典型的な地中海性気候のバレンシアは,絹工業/絹製品取り引きは15世紀ころ最盛期を迎え,このラロンハが建設,活用されたようである.スペイン/1996年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/バレンシアのページから.
グラナダのアルハンブラ,ヘネラリーフェ,アルバイシン
Alhambra, Generalife and Albayzin, Granada
写真で見たシンプルで端正な建築物,タルレガの名曲/アルハンブラの想い出(Recuerdos de la Alhambra)の印象もあって,長い間「見たい!見たい!」と思っていたアルハンブラ.現物を眺めてやはりこの上なく美しいと思った.壁の繊細なアラベスク模様や屋根瓦の波は,あたかもタルレガのトレモロの響きにも少し通じるような.....スペイン/1984年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/グラナダのページから.
ルドバ歴史地区(Historic Center of Cordoba)
コルドバは,756年に成立したムーア人ウマイヤ朝の首都で,イスラムであるから,街の中心は大モスクであるこのメスキータであった.メスキータ(Mezquita)はスペイン語なのであろうか?綴りの前半をとるとMezquiになり,英語でのモスクの綴りMosqueとよく似ている.10世紀に入るとさらに繁栄をとげ,大図書館が建てられ,多くの学者を輩出し,トレドとならんで西方イスラム文化の中心地として発展したそうである.スペイン/1984年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/コルドバのページから.
セビリアの大聖堂,アルカサル,インディアス古文書館
Cathedral, Alcazar and Archivo de Indias in Seville
セビリアにも当然大聖堂(Cathedral/Catedral)があった.高いところはヒラルダの塔と呼ばれるようだ.元々はイスラムモスクの尖塔だったそうだ.そう言われれば確かにイスラム様式,特にムーア人が渡って来た元のモロッコ風ミナレットの名残が十分に感じられる.反対側に回ると,上部にはねじりん棒のような目立つ柱が立っている.因みにコロンブスの墓はここにあるそうである.この大聖堂はスペインで最大,ヨーロッパでもバチカンのサンピエトロ寺院,ロンドンのセントポール寺院に次ぐ大きさだそうである.ヨーロッパの教会は概して皆大きいから,サンピエトロは別格としても筆者には区別が付かないが.スペイン/1987年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/セビリアのページから.
サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(Way of St. James)
サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の内部.この大聖堂は9世紀,上述のように聖ヤコブの墓が発見されてほどなくしてその上に聖堂が建立されたそうだ.だがイスラム軍により破壊されてしまう.さらにその後,レコンキスタを経て11~12世紀に現在の大聖堂へと幾度も改築されたようである.スペイン/1993年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/サンティアゴデコンポステーラのページから.
サラマンカ旧市街(Old City of Salamanca)
市庁舎前広場で,1729~55年にかけて建築されたという由緒あるバロック様式の柱廊広場.スペインで最も美しい広場と言われるそうだ.周囲には歴史的人物のレリーフがあったりして重みを感じさせる一方,多くの市民が日常的に行き交う日常生活の場もあるようだ.高い屋根の上にはコウノトリが巨大な巣を作っていた.スペイン/1988年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/サラマンカのページから.
アビラ旧市街と市壁外の教会群(Old Town of Avila with its Extra-Muros Churches)
アビラに近づくと,巨大な城壁(市壁)に驚かされる.城壁は赤茶色で花崗岩で作られておいるそうだ.城壁には合計88の塔と9つの門があり,よく保存されているそうだ.見たわけではないが,アビラ城壁の内側および外側には多様な教会建が残るそうで,ゴシック建築のカテドラルは1107年に遡り,他の多く,(城壁の外が多いらしいが,)も13世紀~14世紀に建立されたようである.スペイン/1985年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/アビラのページから.
セゴビア旧市街と水道橋(Old Town of Segovia and its Aqueduct)
写真のアルカサル(セゴビア城)はディズニー映画「白雪姫」に登場する城のモデルにもなったというカスティーリャ王の居城.建物だけモデルになったのか?元になるストーリーも城にあったのであろうか?12~13世紀に建築されたが,大部分は15~16世紀に増改築され今の姿になったようだ.スペイン/1985年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/セゴビアのページから.
エヴォラ歴史地区(Historic Center of Evora)
写真のエヴォラ大聖堂は12~13世紀,ロマネスクからゴシックに移り変わる時代らしい,に造られたそうである.Basilica Caredralの表札が掲げられ,キリストの12使徒像の入り口をくぐると,込み入った形状の柱上部に,鮮やかに彩色された天使像が掲げられていた.さらに進むと,キリスト像や象牙製というマリア像のある礼拝堂になった.ここのパイプオルガンは,1584年に訪れた天正少年使節団の中の一人がポルトガル人の前で弾いたという.そんな訳で最古のパイプオルガンでもあるようだ.ポルトガル/1986年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/エヴォラのページから.
リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔
Monastery of the Hieronymites and Tower of Belem in Lisbon
ベレンの塔は16世紀,マヌエル1世の命によって作られたという,船の出入りを監視するマヌエル様式の管制塔,いや要塞か?であるそうだ.テージョ川が海に注ぐ辺りに位置するみたいだ.尤もリスボン自体がテージョ川の河口にあるのだが.16世紀のこの頃,ポルトガルはインド洋航路を発見,大航海で繁栄を極めたときだ.3階は王族の居室,2階は砲台で,命がけで大航海に出る船乗りたちを見送り,また無事故国に帰った男たちを出迎えたという.外観を眺める限り,古くは見えないしとても堅固な石造り,正しく要塞だ.ポルトガル/1983年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/リスボンのページから.
シントラの文化的景観(Cultural Landscape of Sintra)
シントラはリスボンから約30km.周囲は緑の木々で覆われた小高い山々(シントラ山系というそうだ)で,シントラ城はその中心にある.王家の夏の離宮で,元々は,14世紀にジョアン1世がイギリスから迎えた妃のために建てたそうで,後に狩猟用の別荘として使われていたそうだ.一帯には貴族や富豪たちの館も点在するようだ.昔,イギリスの詩人バイロンがこの地に滞在し,ここを「エデンの園」と称えたという.ポルトガル/1995年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/シントラのページから.
バターリャ修道院(Monastery of Batalha)
正式名は勝利の聖母マリア修道院( Mosteiro de Santa Maria da Vitoria)だそうだ.スペインからの独立を守り通した勝利を記念して,1388年ジョアン1世によって建てられたという.詳しく言うと,ジョアン1世が王位をかけ,スペインのカスティーリア軍と戦ったとき,圧倒的不利な形勢にありながら,最終的には勝利し,聖母マリアのお陰と感謝し,捧げた修道院.敗れていればポルトガルという国自体の存続が危ぶまれたそうで,それはそれは大事な勝利であったであろう.ポルトガル/1983年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/バターリャのページから.
ポルト歴史地区(Historic Centre of Porto)
ポルトはこの国の商工業の中心で,特にポルトワインの生産,輸出が町の繁栄を支えてきたようである.ポルトの始まりは5世紀くらいまで遡り,ここに成立した王国が,ポルトガル王国となった.つまり,ポルトガルの名はこれに由来するのだそうだ.一時イスラムに占領されたこともあったが,12世紀フランス王族アンリが奪回し,レコンキスタを完成したそうだ.だからグラナダとかと比べると相当早く完成したことになる訳だ.ポルトガル/1996年文化遺産.
以上スペイン/ポルトガルの旅2002/ポルトのページから.
デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(Qutb Minar and its Monuments, Delhi)
クトゥブミナールはインドで最も高い石造建築物だそうだ.デリーに最初のイスラム王朝を開いたアイバク(生年不明-1210年)が建てた勝利記念塔は,5層に分かれ,それぞれに異なった装飾が施されている.インド/1993年文化遺産.
以上インドの旅2002/デリーのページから.
デリーのフマーユーン廟(Humayun's Tomb, Delhi)
ムガール帝国第2代皇帝フマユーンの墓廟で白大理石と赤砂岩の組み合わせが美しい.タージマハルのモデルとなったとも言われるこの廟は,ペルシャの建築家ミラク・ミルザー・ギヤースの設計によるもので,イスラム廟であるに拘わらず壁面装飾にユダヤ教やキリスト教様式の要素も取り入れ,美しい折衷様式となっている.インド/1993年文化遺産.
以上インドの旅2002/デリーのページから.
ジャイプルのジャンタル・マンタル(The Jantar Mantar, Jaipur)
つい最近の2010年,文化遺産に登録された.ジャンタルマンタルとは昔の天文台で,ジャンタルは道具,マンタルは計算,と云う意味だそうだ.18世紀にジャイプールのマハラジャ,ジャイスィン2世( Jai Singh II of Amber)が国内5カ所(ジャイプール,デリー,バナラシなど)に建設した中の1つで,日時計を中心に,天体(太陽,月,星など)の位置や動きを知るための観測装置が数多く置かれている.
上の写真は太陽の位置を知るための装置で,大理石で造られ美しい.他サイトの解説を見ると,装置中央につられた円盤に日光が当たり,その影が大理石の半球に映る.半球には精密に赤経,赤緯(地球の経線,緯線にあたる)が彫られており,その時の太陽の位置が分かる.観測用の溝(黒い部分)があるので,溝に対になるものがもう一つあり,観測できない場所が無いように造られている.彫られている円の中心は天の北極(北極星のそば)の方角を指す~とあったが,難しくてよく理解できない.
ここには他に例えば日時計などが設備されたいるが,その巨大さにはたまげてしまった.まあ,大き方が精度が良いであろうが....何もそこまで....でも確かに現代への観光遺産としてはなかなか素晴らしい.
以上インドの旅2002/ジャイプールのページから転載.
ファテープル・シークリー(Fatehpur Sikri)
ファテープルシークリーとは”勝利の都シークリー”と云う意味なのだそうだ.ムガール帝国第3代アクバル皇帝は世継ぎに恵まれなかったが,聖者サリーム・チシュティーのアドバイスで,王子ジャハンギールをもうけた.アクバルは聖者に感謝し,彼の住まうこの地(シークリー)に新都市を造営し,都をアグラからここに移すことにした.またちょうどその頃,グジャラート地方の戦に勝利したこともあり,新都の名前は“ファテープルシークリ”になったそうな.丘の上にモスク地区と宮廷地区が築かれ,その下には城下町が築かれた.建材としては赤砂岩が多用された.しかし,水源の確保は必ずしもうまくいかなかったようだ.人造湖を作ってはみたものの,とても大都市の全需要を満たすに及ばず,それ故この新首都は造営されて20年もしないうちに放棄されてしまうことになったようだ.幸いにも戦乱に巻き込まれなかったので,ムガール時代の都市様式を今に残してくれたようだ.インド/1986年文化遺産.
以上インドの旅2002/アグラのページから.
アーグラ城塞(Agra Fort)
1565年,これまたムガール帝国第3代皇帝アクバルによって建設されたムガール帝国権力の象徴.実戦向きの堅固な城だが,内部には華麗なるモスクや宮殿を備えている.ムガール帝国時代,デリーのラールキラーとともに皇帝の居城であった.建築資材として赤砂岩を多用した典型的なムガール様式建物で,前述のように当初第3代アクバルによって造営された後,ジャハーンギール,シャージャハーンと代々の皇帝が増築を重ねていったようだ.インド/1983年文化遺産.
以上インドの旅2002/アグラのページから.
タージマハル(Taj Mahal)
ムガール帝国第5代皇帝シャージャハーンが愛妻のために,幅300m奥行き580mの敷地に建てた左右対称の白い霊廟がこのタージマハル.ただ皇帝シャージャハーンは,あまりにも贅を凝らし,霊廟建設に没頭したため国家の財政を傾けてしまった,と云うのが実相のようだ.それ故か実の息子,アウラングゼーブ(第6代皇帝)の手によって,シャージャハーンはアグラ城に幽閉されてしまった.幽閉された皇帝は毎日この霊廟を囚われの塔より眺めていたということだ.嗚呼!悲しい!インド/1983年文化遺産.
以上インドの旅2002/アグラのページから.
イスタンブール歴史地域(Historic Areas of Istanbul)
トルコ最大の都市イスタンブールの旧市街にある,写真のアヤソフィアなど歴史的建造物群がある.トルコ/1985年文化遺産.
以上トルコ/エジプトの旅2002/イスタンブールのページから.
トロイ(イリオス)の古代遺跡(Archaeological Site of Troy)
ホメロスの詩や伝説を基に発掘を続けたドイツ人シュリーマンは1870年ついにトロイの発掘に成功した.シュリーマンは地形を仔細に観察し伝説と比較照合したそうだ.ただシュリーマンの最大目的は秘宝の発見であったので,無計画な発掘が遺跡を相当傷めたようである.発掘物は密かにドイツに持ち帰ったが,それらの殆どは現在消息不明になっているらしい.トルコ/1998年複合遺産.
以上トルコ/エジプトの旅2002/トロイのページから.
ヒエラポリス-パムッカレ(Hierapolis-Pamukkale)
ヒエラポリスは石灰棚の上の丘陵に残る古代都市遺跡.紀元前190年頃....ペルガモンのエウメネル2世によって建てられ,2,3世紀に最も栄えたと言われるが,未だはっきりはしていないようだ.そして堆積する石灰棚の下にも多くの遺跡が隠されているようで,現在も発掘調査中なのだという.
パムッカレとは「綿の城」の意という.文字通り,石灰棚のところだけが雪が積もっているかのように白く輝き美しい.石灰棚はその上を流れる温泉のカルシウム分が炭酸カルシウムとなって石化し,細かい段差がしだいに大きく,やがて真っ白な棚に形成されたものという.トルコ/1988年複合遺産.
以上トルコ/エジプトの旅2002/パムッカレのページから.
ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群
Goreme National Park and Rock Site of Cappadocia
ギョレメ屋外博物館はフレスコ画で飾られた岩窟教会と礼拝堂の集まりだ.ギョレメの谷一円に石窟が穿たれていて,その一部(とは言ってもかなり数が多いが)キリスト教会/礼拝堂として使われていたわけだ.これら礼拝堂のほとんどが10世紀から13世紀(ビザンティンからセルジューク時代)に作られたものだという.トルコ/1985年複合遺産.
以上トルコ/エジプトの旅2002/カッパドキアのページから.
アブメナ(Abu Mena)
これこそが目指すアブメナの遺跡だったのだ!皆ほっとしました.ここにたどり着く少し前に大量の陶器のかけらが散らばる野原があった.古代エジプトにおけるキリスト教巡礼の中心的存在だったそうである.エジプト/1979年文化遺産.
以上トルコ/エジプトの旅2002/アブメナのページから.