このページでは既存ページから転載し,ボヤナ教会(ブルガリア),リラ修道院(同),カザンラクのトラキア人の墳墓(同),イヴァノヴォの岩窟教会群(同),トランシルヴァニア地方の要塞聖堂のある村落群(ルーマニア),シギショアラ歴史地区(同),ロスグラシアレス国立公園(アルゼンチン),インドの山岳鉄道群(インド),セリミエ・モスク建築物群(トルコ),クサントスとレトーン(同),ネムルート山(同),ハットゥシャ(同),サフランボル市街(同),慶州歴史地域(韓国),石窟庵と仏国寺(同),大韓民国の歴史的村落:河回と良洞(同),華城(同),宗廟(同),ミーソン聖域(ベトナム),ホイアンの古い町並み(同),フエの建造物群(同),フォンニャケバン国立公園(同),ハロン湾(同),ナンダ・デヴィと花の谷国立公園(インド),モンゴルのアルタイ山脈の岩絵群(モンゴル),ワディ・ラム保護区(ヨルダン),莫高窟(中国),秦始皇帝陵及び兵馬俑坑(同),シベニクの聖ヤコブ大聖堂(クロアチア),ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群(同),ドゥブロヴニク旧市街(同),コトル地方の歴史的建造物と自然(モンテネグロ),プリトヴィツェ湖群国立公園(クロアチア),ムラカとジョージタウン(マレーシア)の写真を載せました.
ボヤナ教会(Boyana Church)
ボヤナ教会はブルガリア正教会の2階建て教会堂で,元々10世紀後半~11世紀初頭に建てられたそうだ.後に幾度か改修,増築され,今見る形になったのは19世紀半ばということだ.増築されたにしては決して大きくはなく,寧ろコンパクトな教会に見える.礼拝堂は鮮明なフレスコ画で満たされ,聖母,キリスト,聖人....等々,顔の表情が生き生きしており,信徒でなくとも理解し易い印象を受けた.ブルガリア/1979年文化遺産.
以上東欧紀行2013/ボヤナのページから.
リラ修道院(Rila Monastery)
大変有名なリラの僧院.ストライプのアーチ型デザインは私にはイスラム建築のように見える.だが壁や天井にこれでもかと描かれたフレスコ画はブルガリア正教そのもの,具象的で100%キリスト教世界だ.なお過去にはイスラム支配の時代も長く続いたが,この修道院は存続を認められた歴史があるそうだ.ブルガリア/1983年文化遺産.
以上東欧紀行2013/リラのページから.
カザンラクのトラキア人の墳墓(Thracian Tomb of Kazanlak)
この墳墓は紀元前4世紀ころ作られたそうで,日本では弥生時代で,日本の古墳時代からは600年ほど遡るのだから相当古い.トラキア人は紀元前5千年頃にはここブルガリアやバルカン各地に生活していたと考えられているそうだ.そしてこの墓が作られた紀元前4世紀頃にはギリシャやマケドニア文化の影響を強く受け,ギリシャ語が公用語になり,さらに時代が下ると今度はローマ帝国の支配でローマ化されていったようだ.
写真は玄室天井のフレスコ画(のレプリカ)だ,貴族の葬儀の様子だそうで,このシーンは亡くなったご主人が奥さんと互いに手を取り合って別離する場面になるという.ブルガリア/1979年文化遺産.
以上東欧紀行2013/カザンラクのページから.
イヴァノヴォの岩窟教会群(Rock-Hewn Churches of Ivanovo)
荒地の岩山の抉られた岩窟教会の側面や天井岩肌には漆喰が塗り込められ,フレスコ画が描かれている.部分的に剥がれ落ちたところから,まるで解説書挿絵の如くそうした構造が読み取れる.フレスコ画は顔の目鼻など部分的に色落ちの大きいところがあるはちょっと残念だ.
さてこのイワノボ岩窟教会であるが,主に13~14世紀(日本では鎌倉時代か)にフレスコ画が描かれ,後のブルガリア正教会総主教ヨアキムと云う方がここに居を構えた14世紀初頭から17世紀までの間,修道士たちがここで生活を営むようになっていたということだ.見物したのは写真の部分だけであるが,当時は総数40もの教会群や僧坊など関連施設が多数存在したそうだ.ブルガリア/1979年文化遺産.
以上東欧紀行2013/イワノボのページから.
トランシルヴァニア地方の要塞聖堂のある村落群
(Villages with Fortified Churches in Transylvania)
写真はビエルタンの要塞聖堂.ルーマニアのトランシルヴァニア地方には,13世紀当時ここを支配していたハンガリーの歴代王がドイツ人(ザクセン人)を入植させた.ザクセン人農民や職人,商人らは特権的な地位を有し,強固な共同体を形成し繁栄したそうだ.ただこのエリアは絶えずオスマン帝国などの侵略に晒されたため,住民は要塞群を造り防衛に励んだようだ.ルーマニア/1993年文化遺産.
以上東欧紀行2013/ビエルタンのページから.
シギショアラ歴史地区(Historic Centre of Sighisoara)の時計塔
ここもやはりドイツ系ザクセン人が入植し,職人,商人の各種ギルドを結成し,強固な共同体を形成して繁栄したそうだ.写真はからくり時計で,他にも組合毎の建物や教会など多く残っている.ルーマニア/1999年文化遺産.
以上東欧紀行2013/シギショアラのページから.
ロスグラシアレス国立公園(Los Glaciares National Park)
グラシアレスは英語のグレーシャーに相当し,氷河国立公園ということになろう.荒涼としたパタゴニア地方,アンデス山脈山中に形成される多くの氷河や湖が美しい.アルゼンチン/1981年自然遺産.
以上パタゴニア紀行2013/ペリトモレノ氷河のページから.
インドの山岳鉄道群(Mountain Railways of India)
その昔お茶を運び出すため建設されたという長い歴史を有する鉄道の終点(始点)がダージリン駅だそうだ.ホームにも線路にも自由に立ち入り可能な大らかな駅だ.SLに貼られたプレートには”Frame Re-built 1963, Tindharim Workshop”などと記されている.1963年,つまり50年前に骨格が再構築された訳で,元々製造された年代は相当古い筈だ.本路線は1879年から建設が始まったそうで,SLも100年以上経っているのではないかという話があった.当初『ダージリンヒマラヤ鉄道』としてユネスコの世界遺産に指定され,後に拡張されたようだ.インド/1999年文化遺産.
以上シッキムトレック2012/ダージリンのページから.
セリミエ・モスク建築物群(Selimiye Mosque and its Social Complex)の礼拝堂
オスマン帝国スルタンセリム2世の命で,現ブルガリアおよびギリシャ国境近くエディルネ(当時は帝国の首都)に,1569年~1574年にかけて建設されたそうだ.この大ドームはイスタンブールの有名なアヤソフィア(当初キリスト教会として建立された)のドームより大きな直径で,31.5mもあるそうだ.設計は,非トルコ人の異教徒,当初奴隷の身分であったというミマールスィナン(Koca Mimar Sinan)という大変著名な建築家によってなされたそうである.トルコ/2011年文化遺産.
以上トルコ紀行2012/エディルネのページから.
クサントスとレトーン(Xanthos-Letoon)
幾つかの都市国家から成る古代リュキア(Lycia)と呼ばれる中で,クサントスは最大の都市国家であったそうだ.非支配を嫌い,独立を重んじ,紀元前5世紀という古い時代にレリーフなどの作品を残し,またローマ字(ラテン文字)の起源を作ったと言われるそうだ.トルコ/1988年文化遺産.
以上トルコ紀行2012/クサントスのページから.
ネムルート山(Nemrut Dag)
標高2,100mネムルート山東西2つのテラスには石像の首が並んでいる.その少し上に胴体(坐像)部分が並んでいる.落ちたものか,或いは人為的に落とされたのか.石像群は紀元前62年,コンマゲネ王国の王アンティオコス一世がに建てたそうだ.写真はそのアンティオコス一世のようだ.トルコ/1987年文化遺産.
以上トルコ紀行2012/ネムルート山のページから.
ハットゥシャ(Hattusha: the Hittite Capital)のヤズルカヤ遺跡
写真のヤズルカヤ遺跡はハットゥシャ(ハットゥシャシュ)遺跡の一部(離れてはいる)で,神殿(と墳墓の可能性も)の置かれたヒッタイトの聖地.建立者はトゥトゥハリヤ4世で,ヒッタイト帝国末期に当たる紀元前13世紀半ば頃の王だそうだ.トルコ/1986年文化遺産.
以上トルコ紀行2012/ボアズカレのページから.
サフランボル市街(City of Safranbolu)
香料サフランの集積地として発展した歴史に因みサフランボルと名付けられたという街には,伝統的木造軸組み構造の家が建てられている.1階部分より2階部分,2階部分より3階部分がそれぞれ横に張り出している変わった設計も所々に見られる.これら建築群は概ねオスマントルコ時代の14世紀頃建設されたものだそうである.トルコ/1994年文化遺産.
以上トルコ紀行2012/サフランボルのページから.
慶州歴史地域(Gyeongju Historic Areas)の大陵苑
慶州(キョンジュ)は三国時代の新羅(59AD~668AD)および統一後の新羅(668~935)通して都が置かれた所だそうだ.そしてここ大陵苑の23基を含めての慶州150基余りの古墳はそうした王族の墓であろうとされているようだ.発掘された『天馬塚』からは出土した黄金の冠とか,天馬が描かれた白樺の皮製馬具などは素晴らしい.韓国/2000年文化遺産.
以上韓国の旅2012/慶州(キョンジュ)のページから.
石窟庵と仏国寺(Seokguram Grotto and Bulguksa Temple)のうちの後者
1300年前新羅国宰相金大城により,石窟庵と一緒に建立されたが,1598年豊臣秀吉の遠征軍によって焼失させられたという.そして1765年に再建されたそうだ.仏教的意味合いが込められているという石造りの階段はなかなかユニークだ.韓国/1995年文化遺産.
以上韓国の旅2012/慶州(キョンジュ)のページから.
大韓民国の歴史的村落:河回と良洞(Historic Villages of Korea: Hahoe and Yangdong)の後者
良洞村は朝鮮時代(1392~1910)に作られた貴族の村だそうで,家屋は合わせて150棟が保存されているそうだ.良洞村は今も住民が普通の生活を送る場であるそうだ.例えばこのお宅は農家で,庭先にはトラクターやバイクが置かれている.また,この『現役の村である』ということが,2010年ユネスコ世界遺産(文化遺産)登録の決め手になったそうだ.韓国/2010年文化遺産.
以上韓国の旅2012/慶州(キョンジュ)のページから.
華城(Hwaseong Fortress)
写真は華城の東門にあたる蒼龍門.華城は朝鮮王朝第22代国王正祖が,陰謀により倒れた父親の墓を設け,またそれを守るためにこの蒼龍門のような城門,城壁や塔,楼閣を1794~1796年に築いたそうだ.墓を守るためにしてはあまりに堅固な構造物で固められ,まあ実質的にお城だそうだ.建設には延べ37万人という膨大な労力が投入されたそうだ.韓国/1997年文化遺産.
以上韓国の旅2012/水原(スウォン)のページから.
宗廟(Jongmyo Shrine)
ここでは李氏朝鮮王朝(1932~1910年)の祖先祭祀場であって,李朝歴代27代の王と王妃の位牌が祀られているそうだ.なお墓地は他にちゃんと存在するそうで,人が亡くなると魂は天に(→宗廟),肉体は地に(→墓地)帰るという儒教の教えに基づくそうである.なおここは1995年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されたそうだ.韓国/1995年文化遺産.
以上韓国の旅2012/ソウルのページから.
ミーソン聖域(My Son Sanctuary)
ホイアンから南に1時間ほど走ってミーソン遺跡に至った.ベトナム中部には日本の弥生時代から室町の時代相当にチャンパ王国があって,飛鳥後期~鎌倉初期頃には本ミーソンがヒンドゥーの神が祀られ,聖域だったそうである.お隣りカンボジアの有名なやはりヒンドゥー遺跡(後に仏教寺院に改修)アンコールワットは12世紀頃の建立というから,それより相当古い.ヒンドゥー主神はシバ神で,精密なレンガ構造建物の壁には関連の女神であろうか,レリーフが刻まれている.ただこの聖域が20世紀初頭に仏人によって発見されたのだが,その植民地支配時代にかなり盗掘され持ち出されたそうでもある.さらに致命的だったのはベトナム戦争で米軍の空爆で,遺跡の大半が破壊されたことだそうだ.ベトナム/1999年文化遺産.
以上ベトナム紀行2012/ミーソンのページから.
ホイアンの古い町並み(Hoi An Ancient Town)
チャンパ王国は16世紀初頭,広南グエン政権に取って代わられたそうである.グエン政権は現在のベトナムの主流民族であるようである.さてホイアンは広南グエン政権が支配した頃日本を含めて,世界交易でとても栄えたのだそうである.日本は室町の末~安土桃山~江戸初期の時代に相当するようだ.通りの面した建物は黒い屋根,黄色の壁が印象的で,落ち着いたというか重厚というか,いかにも古都的(小さな港町で,都だったことはない)の雰囲気を醸し出している.現在は観光の街で衣類,食品,雑貨,お土産,アートギャラリー,カフェ,レストラン,ホテル...と色々揃っている.ベトナム/1999年文化遺産.
以上ベトナム紀行2012/ホイアンのページから.
フエの建造物群(Complex of Hue Monuments)
フエの建造物群の中の一つがグエン朝第12代皇帝カイディン(啓定)帝廟.1802年に政権を握ったグエン(阮)朝の第12代皇帝がカイディン(啓定)帝(在位1916-1925年)だそうだ.グエン朝は元々フランスの支援を得て政権を奪還したのであったが,やがて植民地とされた.カイディン帝はそんな植民地時代の王朝最後から2番目の皇帝で,仏の傀儡的皇帝にされたようである.仏好みの皇帝は仏に長く滞在し,戻るとこの仏中折衷風とされる特徴ある廟建設に取り掛かったそうである.ベトナム/1993年文化遺産.
以上ベトナム紀行2012/フエのページから.
フォンニャケバン国立公園(Phong Nha-Ke Bang National Park)
フォンニャケバン国立公園内には豊かな種類の植物から成る原生林に多種の動物が生息しているそうである.また数百もの洞窟があるそうで,その一つフォンニャ洞窟に入った.奥に進むと色々な鍾乳石や石筍が現れる.随分大きなものもある.2億5000万年前から形成されたと聞いても,あまりに長いレンジでピンと来ない.まあ一般にカルスト地形における鍾乳石の1年間くらいの成長は微々たる長さと聞いているから,これほど大きいものは気の遠くなるくらい長い時間が掛かるのであろう.ベトナム/2003年自然遺産.
以上ベトナム紀行2012/フォンニャケバンのページから.
ハロン湾(Ha Long Bay)
ハロン湾は海の桂林と称されることがあるが,実は桂林のカルスト地形はここハロン湾までず~っと連なっているのだそうで,そりゃまた随分長い距離だと思う.桂林の川(漓江 )に対して海の違いがあるが,山の形や鍾乳洞がある点などよく似ていると思う.ベトナム/1994年自然遺産.
以上ベトナム紀行2012/ハロン湾のページから.
ナンダ・デヴィと花の谷国立公園(Nanda Devi and Valley of Flowers National Parks)
インドではカンチェンジュンガ(ネパールとの国境)に次ぎ,2番目がこのナンダデビ7,816mだ.写真はチベット側トンガ/ピヤン遺跡からンガリ(アリ)に向かう辺りで眺めたもので,間近に望むことができる.1936年英米隊による初登頂以降,大勢山に入り,荒れるようになったため,インド政府は一帯を国立公園として保護し,ここ20年余入山制限している模様である.インド/1988年自然遺産,2005年花の谷を拡大.(この項2012/5/6追記)
以上カイラスの旅2007/アリのページから.
アルタイ山脈の岩絵群(Petroglyphic Complexes of the Mongolian Altai)
写真はシベートハイルハンの南を巻くトレイル脇を通過するときに見かけた.この辺りの絵は放射性炭素年代測定に依ると5,000年前~2,000年前に描かれたものらしい.鹿やアイベックスなどの動物,弓を持つハンターなども見える.素朴で力強いタッチの絵だ.場所によっては1万年以上古い絵も見られるそうだ.モンゴル/2011年文化遺産.(この項2012/1/3追記)
以上モンゴルの旅2009/ツァガーン渓谷のページから.
ワディ・ラム保護区(Wadi Rum Protected Area)
「アラビアのロレンス」撮影の舞台になったところで私にとってはとても印象深い.バスで来たこの場所は高台(1500mくらい)で砂漠を見下ろす位置だった.写真のような巨大な岩峰や砂漠の景観に加え,1万年以上に遡るという岩絵や文字,遺跡が残されているそうだ.残念ながらそれらの歴史物に触れることはできなかった.ヨルダン/2011年複合遺産.(この項2012/1/3追記)
以上中東の旅2006/ワディラムとアカバのページから.
秦始皇帝陵及び兵馬俑坑(Mausoleum of the First Qin Emperor)
幾度となく写真で眺めた兵馬傭博物館の一号館.実際入って眺めるとその広大さと,等身大(より少し大きい)兵傭(人形)の数に改めて圧倒される.また実物の1/2縮小サイズで,青銅で鋳込まれた秦始皇帝の銅車馬の精巧さなどにも驚くばかりだ.一方秦始皇帝陵の方は実際発掘された訳ではなく,始皇帝陵という説があるだけで,確かめられておらず,ちょっと迫力に欠く.中国/1987年文化遺産.
以上河西回廊を行く2011/西安(後半)のページから.
莫高窟(Mogao Caves)
莫高窟は4世紀辺りから掘られ始め,元の頃まで長く続いた仏教の場,窟には夥しい数の仏像(塑像)や壁画が残されている.基本的には全ての窟には供養者(スポンサー)がいて,一部にお坊さん修行の専用窟も見られる.また元の頃は吐蕃の支配下に置かれ,チベット仏教が加わるなど,時代的変遷も面白い.アート的には唐代に完成し,後世清の頃の修復では寧ろだめになったケースが多いようだ.中国/1987年文化遺産.
以上河西回廊を行く2011/莫高窟と楡林窟のページから.
シベニクの聖ヤコブ大聖堂(Cathedral of St. James, Sibenik)
1400年代初頭からゴシック様式で工事始められ,途中ルネサンス様式が加味され,1555年に完成したそうである.1991年セルビア人部隊によるシベニク砲撃で大規模に破壊されたが,数年の後殆ど損傷のない状態までに修復されたそうである.また建築的観点では,レンガや木の補助材を全く使わず建てられた石造建築の教会としては,世界最大ということだ.クロアチア/2000年文化遺産.
以上バルカンの旅2011/シベニクのページから.
ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトの歴史的建造物群
(Historical Complex of Split with the Palace of Diocletian)
紀元4世紀ローマ帝国時代,皇帝ディオクレティアヌスが,自ら皇帝の地位から退くことを宣言し,ここスプリットに隠居用宮殿を建てたのが今日のスプリットの始まりという.その宮殿の城壁内部にはローマ時代の建造物が多く残っている.集合住宅も多く,石畳の狭い路地を行く市民はごく普通にここでの生活を営んでいる,というのが驚きだ.クロアチア/1979年文化遺産.
以上バルカンの旅2011/スプリットのページから.
ドゥブロヴニク旧市街(Old City of Dubrovnik)
ドブロヴニクは他のダルマチア諸都市同様ヴェネチア共和国支配下に入ったことがありながらも,独立都市ドブロヴニクとして歴史的に海洋貿易によって栄え,優れた外交政策と豊富な交易で得た富で15~16世紀頃は特に繁栄したようだ.城壁の陸側メインゲートであるピレ門から入ると水道設備や,教会,商業施設,公的施設や写真の港湾施設.....いろいろ残る.クロアチア/1979年文化遺産.
以上バルカンの旅2011/ドブロヴニクのページから.
コトル地方の歴史的建造物と自然(Natural and Culturo-Historical Region of Kotor)
コトル旧市街の歴史的建造物はもちろんフィヨルドで形成された山や湾などの自然景観も素晴らしいと思う.モンテネグロ/1979年文化遺産.
以上バルカンの旅2011/コトルのページから.
モスタル旧市街の古い橋の地区(Old Bridge Area of the Old City of Mostar)
スタリモスト橋はモスタルのランドマーク,それどろかモスタルの名自体がこのMost(橋)に由来するそうだ.蒼い流れのネレトヴァ川に架かるアーチ型の橋.1557年スレイマン1世の命で,ミマールハイルッディン(Mimar Hayruddin)という建築家が1557年に着工,9年間費やし1566年に完成したそうである.旧市街は元を質せばオスマントルコ帝国の時代に遡るであろう.モスクのみならず,ハマムなどはもちろんであるが,他色々な建築物のデザインにその面影を垣間見る気がする.オスマントルコに侵略されたときからつい最近のボスニア紛争まで苦難の歴史であったであろうが,ぜひとも回復して欲しいものだと思う.ボスニアヘルツェゴビナ/2005年文化遺産.
以上バルカンの旅2011/モスタルのページから.
プリトヴィツェ湖群国立公園(Plitvice Lakes National Park)
プリトヴィツェ湖群は周囲の山間に広がるプリトヴィツェ台地に位置し,湖群名もこれに由来するそうである.全部で16の湖(若しくは池)があり,それらが滝で結ばれている.この時期上部の湖は閉鎖されており,私たちは右写真,湖群下の辺りを歩いただけだった.それでもまあなかなかいい眺めではあった.この辺りの地質は主に白雲岩と石灰岩のカルストから成り,それがこの特徴的景観を形作ったそうである.クロアチア/1979年自然遺産.
以上バルカンの旅2011/プリトヴィツェのページから.
マラッカ(Malacca)の歴史地区
ペナン島ジョージタウン(Georgetown, Penang)のシティホール
ムラカとジョージタウン,マラッカ海峡の歴史都市群(Melaka and George Town, historic cities of the Straits of Malacca)と云う長いタイトルが付いている.マラッカはマレー半島とインドネシアのスマトラ島を隔てるマラッカ海峡における貿易や文化の交流点として発展した.そして例えばセントポール教会,オランダ広場,ポルトガル広場などに時代の面影を留めている.またジョージタウンは18世紀末からのイギリス支配による植民地時代の面影を強く残している.2つの町は建築様式や町並みに独特な都市景観を残しているようである.マレーシア/2008年文化遺産.
以上マレーシア紀行2011/マラッカおよびペナン島のページから.